ホプキンズの幽美(ゆうび)なソネット
〜一〇五番〜
楠瀬 健昭
青春時代にGerard Manley Hopkins(一八四四―八九)はさまざまな詩形を試みているが、その中でソネットに注目すれば、未完成なものも含めて、そのほとんどすべてがイタリアン・ソネットである。脚韻はabba abba cdc dcdで、最初の八行すなわちoctetはabbaのいわゆるkissing rhymeもしくはenvelope rhymeの繰り返しである。また、イタリアン・ソネットの場合voltaのあとの六行すなわちsestetはchained rhymeでありcde cde, cde dceなど、さまざまなヴァリエーションが考えられるが、ホプキンズは決まってcdc dcdの形をとる。
ところが、次に拙訳とともに掲げる一〇五番(一八六四年九月の作)、Now I am minded to take pipe in
handで始まる詩は、未完成であり、十七行にわたるが、その脚韻はabab cdcd efef gg fhh となっている。つまり、十四行目までに限定すれば、これはイングリッシュ(シェイクスピアリアン)・ソネットである。十四行の後に、さらに三行の尻尾がついた形になっている。
Now I am minded to take pipe in
hand
And yield a song to the decaying
year;
Now while the full-leaved
And scarcely does
appear
The Autumn yellow feather in the
boughs;
While there is neither sun
nor rain;
And a grey heaven does the hush’d earth house,
And bluer grey the flocks of trees look in
the plain.
So late the hoar green chestnut breaks a
bud,
And feeds new leaves upon the winds of
Fall;
So late there is no force in sap or
blood;
The fruit against the
wall
Loose on the stem had done its
summering;
These should have starv’d with the green broods of
spring,
Or never been at
all;
Too late or else much, much too
soon,
Who first knew moonlight by the hunter’s
moon.
さても、フルートを手に
衰えゆく季節に寄せる詩(うた)を詠んでみようか、
さても、木立の葉叢(はむら)は夏のままに
大枝に黄葉(もみじば)も
ほとんど目立たないとはいえ、
陽光も雨も降りそそがず
灰色の空が静まりかえった大地を覆い
平原の群れ成す木々が、さらに青みを帯びた灰色に見えるうちに。
晩(おそ)すぎるのだよ、霜に覆われた今、緑のトチノキが萌(も)えても
若葉に白秋の風を与えることになる、
晩(おそ)すぎるのだよ、樹液には勢いがなく
壁にもたれかかる果実は
蔕(へた)にぶら下がり、盛りの時をすっかり過ぎている、
これらは春に芽生えた緑の群れと一緒に、疾(と)うに枯れているべきだった
あるいは、ゆめゆめこの世に存在すべきではなかったのだ、
生まれるのが晩(おそ)すぎた、そうでなければ、あまりに早すぎたのだ
狩猟月の光を浴びて、月の光というものを初めて知ったものたちは。
イングリッシュ・ソネットは、脚韻だけでなく、最初の八行のあとshift、さらに次の四行のあとにはturnがあるという風に、イタリアン・ソネットとは少し趣の違うソネットである。ホプキンズは後年、十四行詩の前半八行を六行に、後半六行を四行半に圧縮したCurtal Sonnet(その脚韻はabcabc dbedc)を発明し、その一方通常のiambic pentameter弱強格五脚ではなく弱強格六脚からなる詩行のソネットも作るなど、ソネット形式に並々ならぬ関心をもっていた。ミルトンのCaudate Sonnet(イタリアン・ソネット形式十四行の後に三行連句を尻尾のように二つ付け加えた二十行詩、その脚韻はabbaabba cdecde eff fgg)に倣うこともあった。一〇五番はイングリッシュ・ソネット形式の後に三行連句が置かれているので、Caudate Sonnetを作ろうとしていたとは言えない。ただし、この三行連句の第一行目はCaudate Sonnetも一〇五番もともに三脚からなる詩行であることに変わりない。形式的に興味深いものであることは確かである。
この詩は八行と九行の二つのスタンザから成る。第一連は一行、三行のnow、三行、六行のwhile、そして七行、八行のgreyの繰り返し、そして第二連は一、三、八行のso late, too lateの繰り返しがリズムを作り、それぞれの連をまとめている。
詩人は、前半八行のうち、最初の二行で、まず「衰えゆく季節」the decaying yearに捧げる歌を作ることを宣言する。次の六行で今がどのような季節かを展開する。木々の緑は青々として、黄葉までにはまだ早いが、灰色の曇り空は晩秋の風景を湛えている。ここには実りの秋につきものの果実の描写はない。秋は、この風景の中で、過ぎ去った夏と来るべき冬と同時に表現され、墨絵とまではいかないが、地味な生地を使った織物のような一幅の絵画を見るようである。すなわち、詩人の身を置く季節を説明すると同時に、すでに本題にも入っている。ここまでは、四行目がtetrameterと短くなっているが、通常のソネット形式である。
後半九行のうち、まず、最初の二行で、冬を間近に控えた季節に芽生えたトチノキの若葉が、寒さで枯れる運命にあることを詠い、哀切きわまりない音色を奏でている。次の三行では、「衰えゆく季節」を、木々を支える樹液の衰えと盛りを過ぎて今にも落ちんばかりの果実を語ることによって、具体的に再び印象付ける。最後の四行では、トチノキの若葉が、このように季節はずれではなく、普通の若葉と同じように、春生まれるべくして生まれ、同じように枯れるなら、春の遅霜で枯れる運命を共にすべきであったと嘆く。また、はじめから生まれてこなければ良かったのにとも嘆く。「狩猟月の光を浴びて、月の光というものを初めて知ったものたちは」、晩秋の小春日和に芽生えたトチノキの若葉のことを指している。第一スタンザとの間に明らかにshiftが見られるまでは、イングリッシュ・ソネットである。しかし、第二スタンザは今検討してきたように、意味的には最初の二行と最後の四行が一まとまりとなり、中の三行は最初の二行の補足のように見える。つまり、九行全体のうち、最初の五行の後にturnが見られ、最終二行はカプレットであることを考えれば、またソネットは十四行詩ということにこだわらなければ、イングリッシュ・ソネットの変奏と見てもいいのかもしれない。
狩猟月hunter’s moonが見られるのは一〇月末である。ホプキンズは狩猟月の代わりに、それよりも四週間ほど早い収穫月harvest moonを使おうともしていたが、狩猟月のほうが、この詩全体の雰囲気にぴったりである。狩猟月、別名Blood Moonは、ちょうど狩猟期到来の頃に現れる。北ヨーロッパでは空が晴れていれば、渡り鳥を狩るのに理想的な明るさである。狩人は月明かりを頼りに獲物を追跡し、冬に備えて食物を調達する。狩人は音も立てずに森を進む。頭上の月は、なきがらのように青白く、森に住む動物たちを照らし出す。やがて、狩人が手にした血染めの獲物のように、月は血の色となる。トチノキの若葉が月光を浴びる森には、このような張りつめた風景が展開する。
最終行に狩猟月という言葉が現れることによって、動物を連想させる言葉がこの詩全体に散りばめられているのも肯ける。すなわち、この詩には動物はまったく出てこないが、植物を表現するときに、意識的に動物を連想させる言葉を使っているからである。顕著な例をいくつか挙げれば、featherは「鳥の羽」、flockは「動物の群れ」、feedは「動物に食物を与える」、broodは「一腹の子、一孵りのひな」である。このほかにも、sap or bloodは「樹液」の意味であるが、bloodは「血」でもある。またlooseは「動物が解放された」の意味もあり、summerには「夏の間家畜を放牧する」意味もある。starveは英方言では「寒さに凍える」の意味で使うが、もちろん「餓死する」の意味で使うほうが普通である。
Marianiはこの断片を「初秋の賛歌」としているが、後半のスタンザは明らかに晩秋を詠ったものである。確かに、前半のスタンザで詩人が位置しているのは、木々の葉の描写から初秋に見える。だとしたら、詩人は初秋の風景を現前にしながら、心の中で、晩秋の小春日和に春の訪れを感じて芽吹いたトチノキの若葉の運命を、想像していることになる。ホプキンズは、Fall, Autumn, summering, springは使っているが、winterという言葉を用いず、玄冬には直接触れることなく、しかも冬の季節がすぐそこには到来することを予感させる。それでいて再び春が巡りくることも忘れずに表現するところが、この詩全体を支配する哀しみに、わずかながら希望の光を与えている。
<参考文献>
Gardner, W.H. Gerard Manley Hopkins: A Study of Poetic
Idiosyncrasy in Relation to Poetic Tradition. Vol.U.
Marian, P.L. A Commentary on the Complete Poems of Gerard
Manley Hopkins.