戦 記
―父と母に−
松崎 一平
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一週間後、せり摘みの話をしてくれた学生が訪ねてきて、ほぼ一クラス分の人数が集まりそうだといった。そして、できるものなら、集まったときに何かおもしろい英語の本を読む時間を作って欲しいと望んだ。集まりを情報交換の場にするばかりでなく、そのつど少しずつ本を読むのもいいかもしれないとわたしも思い、それでは教材を決めて、四月になったら一週間に一度のペースで集まって、読書会のような形式で何か適切なテキストを読むことにしようといい、学生が少しおしゃべりをして帰っていったあと、わたしはすぐに本棚を探し始めた。本を取りだしては、これは長すぎる、これは難しすぎると選択を楽しむ、学期が始まる前によく経験した、しばらく忘れていた時間がよみがえった。毎日、暇ができると本棚を探した。やがて寒いと感じる日は次第に少なくなり、セーターやカーディガンくらいの出で立ちで外出できる日が多くなってきた。文章は難しいが、少しずつ丁寧に読んでいけば、高校生でもおもしろく読めるのではないかと思われる、大学の初年次の授業を念頭に置いて編集したと思われる簡単な注つきのエッセイ集が見つかった。本来なら大学生になっている学生たちが相手なわけだから、これでいいかなと考え、準備を兼ねて読み始めた。桜のつぼみがちらほらとほころび始める時期が来ていた。
さて、知り合いからいただいたつくしを妻は、半分はおひたしにし、残りは佃煮風に煮て、いずれもおいしく食べ、春の到来をしみじみと実感するということがあった。少し日がたち、娘が、これから友だちと南川の川岸に沿って一キロあまりの長さで植えられている桜並木の花見に行くといったとき、どうしたことか、わたしは父が話してくれた父の子どものころの花見の話を思い出した。
父の生まれ故郷の村から一番近い駅まで国鉄バスで行き、県庁所在地からやってきた普通列車に乗って、およそ一時間で、深く切れ込んだ湾の頂点で海に面している古い城下町に到着する。父の故郷の村とその城下町との間には、それほど高くはないものの険しい山並みで隔てられているため、汽車は長いトンネルを越えて行くことになる。むろん、そのころはSLで、両手で黒ずんだ真鍮製のバネを押さえて車窓を開くと煤煙が流れ込んできて、煤の微細な粒子が目に入ると、目のなかでコロコロとし、目を開けていられなくなったものだ。特にトンネルのなかで窓を開けるのは禁物で、夏などはトンネルに入ることを知らせる汽笛が鳴ると、乗客はみな、大急ぎで窓をバタンバタンと閉じたものだった。トンネルを越えてしばらくすると、海岸線のはるか先に城下町が拡がる海が目に入る。城下町のさらに先には緑なす半島が湾を囲むように延び、それを背景に、湾の真中にある濃い緑の木々に覆われた島が目に入る。父は、古い城下町を訪れるときには、きれいな円錐形のその島を見るのが一番の楽しみだったとなつかしそうにいっていた。若い頃ひどく島くらしに憧れるようになったのは、その風景がきっかけだったんだね、ともいった。父のこどものころは、故郷では桜は三月の最後の二、三日に満開となったということだ(温暖化のせいか、いまではずいぶん早まってしまった)。その時期、ちょうど学校は春の休みで、その城下町に、父は両親、つまりわたしの祖父母と三人で何度か花見に行ったことがあったという。城下町の中心に位置する城址が公園となっていて、桜の名所だった。戦国時代にキリシタン大名が築いた頃はまだ島だったという城址は北東の方向に向かって、それほど広くない埋め立て地を挟んで海に面していて、間近に湾の真中の島を見ることができた。国鉄の駅から城跡まで、こどもの足ではかなり距離があったな、と父はいった。途中に古い商店街があって、いくつもの商店が軒を連ね、長年の風雨ですっかり油気が抜けて渇いた無彩色となった細い杉の格子に囲まれた透明な硝子戸が重なって陽光を浴びている様は、それほど古くもない商店が数えるほどしかない村で育った父の目を惹きつけたものだった。城跡は、路地をいくどか折れると、苔むした石垣と石垣との間に、ぱっとその登り口を見せたという。こどもの足には大きすぎる石段を右に左に折れながら、息を切らせて登っていくと、途中の石垣におとなが入れるくらいのくぼみがあったり、古い櫓があったりして、少し前を進む父はくぼみに身を隠して、後からやって来るわたしの祖父母を、飛び出してびっくりさせておもしろがったり、あるいは櫓の陰に隠れて心配させたりしたのだった。そうやって石段を登りきると、そこは広々とした広場で、桜の老木が豊かに満開の花を咲かせているのだった。こどもの目にも、それはほんとうに見事な花盛りで、南国の澄んだ青空と青い海を背景に、春の盛りを演じていた。広場のあちこちに、筵のうえに車座になって酒を酌み交わし重箱をつつきながらにぎやかにしているひとたちがいた。父は、海側から吹く心地よい春の微風のなかで、おにぎりを食べ、お菓子を食べ、まだ若い祖父とキャッチボールをしたり、祖母と城跡のあちこちを散歩したりして時を過ごしたものだった。
父がこのような話をしてくれたのは、それが、日本が初めての敗戦を経験したから十五年ほどしか経っていないころのことであって、父がもう少し大きくなって大都市に行く機会があったとき、駅の通路に筵を敷いて腕や足をなくした白い服を着た兵隊たちが座って喜捨を求めているのを目にし、戦争がそれほど昔のことではないと実感し、それを機にそれまでの自分の世界が、なにか別な風にかわり始めたということを、わたしに教えるためだった。幼い父が感じ取った花見ののどかさと戦争の生々しい痕跡の対比。
以下、夕方、帰宅した娘の話。
お昼前に神社で友だち二人と落ち合って、あまり急がずに、おしゃべりをしながら花見に向かいました。たぶん、一時間足らずで川岸に着いたと思う。切れ目なく続く桜の並木が最初に目に入ったときの美しさといったら息を呑むほどだったわ。途中、いつもと違うことはありませんでした。神社から歩き始めたときには、あまりひとと会うことはなかったけれども、川岸が近くなると、わたしたちと同じように連れだって花見に向かうひとたちが目立つようになりました。川岸はそれほど寒くはなかった。ときどき冷たい風が吹きはしましたが、歩いて身体が暖まっていたからか、気にはならなかった。まずはお弁当を食べなければ、ということですぐに相談がまとまって、川面に向かってゆるやかに斜面になっているところに真っ赤なシートを敷いて腰を下ろしたの。それほど混雑しているわけではなかったけれども、これより多いと狭苦しい感じになるかなというくらいの間隔で車座ができていて、川原はにぎやかでした。わたしたちは川面からより離れたところに位置していました。つまり、桜並木に近いところ。斜面だったので空いていたのだと思う。花はまさに満開で、散り始めるのはもう二、三日してからかなというくらい。満開の花の下で食べた、お母さんと一緒に握ったおにぎりは、とても美味しかった。すりごまがかけてあるつくしの佃煮と食べるとほんとうに美味しかったわ。三人でおしゃべりをしながら、時間をかけて大切に食べました。つくしの佃煮はみなで分けました。ごまが効いてるね、と友だちはいっていたわ。それから、三人で少し歩きました。あの辺りは、南川が大きく曲がってから真っ直ぐに海に向かうところで、弧の外側にあたる向こう岸に向かって川は深くなっていますよね。その向こう岸の桜が川面に映っているのは、なんともいえないくらいにきれいでした。友だちとつまらないことで意見が合わなくて、互いにことばが出なくなるということがちょっとはあったけれども、でも久しぶりにおしゃべりができてとても楽しかった。思い返してみると、とりとめのない話ばかりだったのだけれども、時間のたつのがとても早くて。さあ、そろそろ家に帰りましょうか、と一人がいったときだったわ。川岸近くで遊んでいただれかが、あ、ひとが流れている、と叫んだの。見ると、川の深みに黒ずんだ作業服のようなものを着た若い男の人が頭を前に仰向けになって流されているの。おどろいたわ。桜の花が映っている川面のすうーっと流されていきました。作業服の右胸のところに傷口が開いているようでした。わたしたちは川岸から離れたところにいたし、一瞬のことだったから、はっきり見えたわけではないけれども。友だちたちも、見えたといっていた。そして、たぶんその死体は川を曲がりきると海のほうに向かって流れていきました。だれかが警察に知らせなきゃ、と叫んでいたけれども、そのときには死体はもう見えなくなっていた。驚いたし、怖かったことは怖かったけれども、何かスローモーションの映像を見ているみたいで、不思議な景色でした。