混迷する高校教育の中で

―多様な価値観をどう産み出すか―

 

和田孫博

 

一、高検制度に関わる問題

 

 年明けに文部科学広報が送られて来た。文科大臣の年頭所感に目を通すと、教育基本法の改正とともに、教員の質の維持向上のためにも義務教育費の堅持が最大の課題であり、義務教育の質の向上に努める旨が述べられていた。欧米やアジアの他の国々と比較して、日本の生徒・学生が勉学に消極的であるという調査結果に危機感を持った文科省は、「生きる力」に代わって「考える力」を旗印にし、学習に対する興味付け、動機付けを基本に据えた次期指導要領の策定と全国学力考査の実施を約束すると言うのである。同時に産業界に直結する大学の改革についてもかなりの紙面が割かれていた。しかし、高校教育のことには一切触れていない。果たして高校教育はどうでもいいと思っているのだろうか。どうもそう思える節がある。

昨年から大学入試検定(大検)に代わって高校卒業程度認定試験(高検)制度が導入され、年二回実施されることになった。見かけは名称変更だけのようだが、実は重大な問題を孕んでいる。従来の大検は、諸事情で高校へ行けなかった人や高校を中途退学した人など、高卒の資格を得られない人に日本の大学に進学するための道を開くのが目的であり、それなりの機能を果たしてきたと思う。ただ、これまでの大検合格者には大学を受験する資格は認定されたが、学歴はあくまでも中卒扱いであった。これに対して高検は高校卒業資格を認定することに主目的がある。そして規制緩和の名の下に、大検では受験資格のなかった全日制高校在学者も高検を受験することができるようになった。高検に合格した科目を高校の履修単位として認めるかどうかは高校側の判断に任されているが、高一や高二に在籍しながら高検を受験して、必要科目に合格すれば高卒の資格が得られるのであれば、その時点で退学して大学受験に備えるという生徒が早晩現れるのではないかという心配がある。事実、中国地方のある小さな進学塾のパンフレットでは、「高検に合格したら学校をやめて東大を目指そう」とデカデカと書かれてあった。少子化の時代、高卒浪人生の数が少なくなってきている今、予備校などでも夜の現役コースに力を入れているが、高検合格者を対象にした昼の現役コースがいつできても不思議ではない。

高校をやめてまで大学受験に備えるなんてあり得ないと言い切れるだろうか。僕の心配は実はその点にあるのである。進学校に籍を置く者として言えることではないかもしれないが、今のほとんどの高校は大学進学率を向上させることのみに躍起になっているような気がしてならない。コース制の導入という名目で、英数コース・特進コース・医進コースというような習熟度別クラスを作っているし、朝や放課後の補習の導入や一日八時間授業などを実施したり、特待制度を設けて授業料を軽減することで成績優秀者を確保したりしている。このように大学進学率を伸ばすことのみが高校の目的であるというのであれば、前述のような塾や予備校で進学に特化した授業を受ける方が能率的であるという考え方をする者が出てくることも十分あり得るはずだ。

したがって高校が生き残る術は、大学進学以外の付加価値をいかに保ち得るかにあると思う。生徒や保護者の期待が大学進学にある以上、受験に背を向けるわけにはいかないが、ただ受験技術を身につけさせることだけに明け暮れていては、塾や予備校との差別化はできないのではないか。むしろ、学校は今こそ本来の人格形成の場に立ち返って、自ら考えて行動することの大切さとおもしろさ、友人や教師と共通体験を形成する重要性を実感できる場となるべきである。そして生徒が社会に積極的に目を向けて自ら進むべき道を自らの責任で選択することが可能な場であるべきである。大学進学を目指す人たちにも大学入試突破が唯一の最終目標ではなく、進学目的をしっかり持ち、大学入学後それを実現するために努力する下地を築く場とならなければならない。そういう場でなければ、大学全入時代に突入した今、高校は高卒の資格が取れて大学入学年齢あるいは就職可能年齢に達するのをじっと待つだけのモラトリアムの時期になってしまい、生徒はせいぜい少しでも偏差値の高い大学への合格や、少しでも条件のいい就職を求めて成績を気にする事に終始するのみになる。

それでも、大学入学や高卒就職の年齢が十八歳以上である間はまだ何とか持ちこたえるかもしれないが、少子化の世の中、大学も専門学校も学生確保が大変になってきている状況で、いつ年齢制限が引き下げられるかもしれない。高検に合格した者は高卒扱いされるのだから、十七歳でも十六歳でも上級学校を受験することができる、あるいは景気がよくなって就職できるという時代が来ないとは誰も保証できない。そうなった時、大学入試突破以外の付加価値のない高校に生徒を引き止めることが可能だろうか。

実は、この高検制度の構想は文科省で描かれたものではない。数年前に経済産業省の中の子供の将来を考えるという趣旨の研究会で打ち出されたものなのだ。その答申の中に、まるで近未来小説のような形でモデルケースが提示されている。その主人公は将来の夢をしっかり持った中学生で、かれは自らの夢の実現のために「僕はまず高検合格を目指す」と述べる件がある。前文科大臣の中山成彬氏がこの研究会が開催されていた頃の経産副大臣であり、その文科大臣在任中に高検制度が始まったというのはある意味示唆的である。今や教育行政は文科省主導ではないのかもしれない。

 

二、学校選択制に関わる問題

 

 昨年末に『学校制度に関する保護者アンケート』の「調査結果の概要」と題されたレジュメが学校に送られて来た。調査実施概要という項を見ると、全国の学校を通じて行われたものではなく、野村総合研究所のインターネット調査サービスに登録しているモニターのうち小学生〜高校生のこどもを持つ人々の中から、三、六二〇名を無作為抽出し、回収率は三五、一%だったとある。

調査内容は大きく分けると三つである。

一つ目は「現在の義務教育に対する評価」で、「ゆとり教育」や「総合的学習の時間」を目玉とする現在の学校教育への不満が高いこと、学校よりも塾や予備校の方が優れていると思う人が多いことを調査結果として挙げている。

二つ目は「教員をめぐる施策の評価」で、公立よりも私立の教員の方が保護者の満足度が高いこと、免許制度の見直し、教員の評価制度の導入とそれによる処遇の差を是とする人が多いことを調査結果として挙げている。

三つ目は「学校選択制度等に対する評価」で、当然ながら選択制導入を是とする保護者が多いという調査結果が示されている。

このレジュメに『規制改革・民間開放の推進に関する第二次答申(教育分野抜粋)』というレポートが同封され、その中では(1)教員の質の向上を目指した免許制度及び教員評価制度の改革、(2)質の向上を促す学校選択の自由の徹底、(3)学校に関する情報公開・評価の徹底、(4)バウチャー構想の実現、という四つの柱が謳われている。

この調査内容は、直近の指導要領の目玉に据えた「ゆとり教育」や「総合的学習の時間」などへの満足度や、遅々として進まない教員評価制度の見直しや学校選択制の推進を要望するか否かというもので、極めて恣意的であると断じざるを得ない。そして何よりも一番の問題は、この種の調査が教育の監督官庁である文部科学省自身が行ったものではなく、内閣府の規制改革・民間開放推進室が主幹して行い、調査結果も文科省の頭越しに全国の小・中・高等学校へ配付されたものであるという点である。そして送付書には、「それぞれの事項について【問題意識】と【具体的施策】という構成になっており、【具体的施策】の箇所は文部科学省も合意している内容で、最大限尊重の閣議決定対象となっております」と念が押されている。これがいわゆる小泉的手法なのであろう。足回りが極めて悪く何をしても後手に回っている文科省は、明らかに恣意的なこの調査結果を内閣府から突き付けられ、渋々教育改革に乗り出すことを約束したというわけである。

外圧によるものであったとしても、文科省が教育改革に乗り出すのはいいことだという考え方もあるが、問題はその教育改革がどういう方向に進もうとしているかである。上級学校に進学することを唯一の価値基準として「学力」をつけることを目指すのであれば、「学校選択制」の導入によって小・中・高、国公私立の区別なく、各学校は全国学力調査や教育業者が売り込んでくる模擬試験の偏差値によって輪切りにされ、各学校は近隣校との偏差値競争に勝ち抜くべく、受験対策に翻弄されることになるだろう。「学校選択制」のような施策を真に実のあるものにするには、まず国民の中に新しい価値観を醸成することが必要なのではないか。職業、教養、趣味などすべてにおいて多様な生き方があり、各人それぞれに合った道を選ぶことが幸福につながるのだ、という共通認識を築かねばならない。その上で各学校がそれぞれの特色を打ち出し、自分の才能や個性を最も伸ばせる学校を子ども自身や保護者に選んでもらえるようにするべきだ。野球留学やサッカー留学を非難する声もあるが、ある意味でまさに学校選択の先例と言えるかもしれない。スポーツの他にも、インターンシップや体験学習を特色として打ち出している学校もある。しかしまだまだ絶対数もバラエティーも少ないし、生徒募集が必ずしもうまくいっていない。日本人の価値観がそういう学校を進んで選択するほど多様ではないのだ。内閣府や経産省が現在の教育を憂い、本当に子どもの将来を考えるというのであれば、文科省つぶしをする前に、そういう多様な価値観が認められる世の中づくりを目指す施策を打ち出すべきではないのだろうか。そうでないと、本当の意味での教育の規制緩和、教育の流動化は到底実現できないと思う。