「わかれは、かくも甘い悲しみ」

――『ロミオとジュリエット』を読む

 

古典とのふれあいをもとめ、ここ数年、学生諸君と『ガリヴァー旅行記』(一七二六)、『ロビンソン・クルーソー』(一七一九)、『失楽園』(一六六七)を日本語訳を頼りに読んできた。古典とは、誰もが、それについて何らかの知識をもっているが、多くの人は実際には読んだ経験をもたないもの、と言えるかもしれない。まして、原典となると、なおさらである。古典は、読む人によってさまざまに読めると同時に、普遍的な感動を与え続けると、言えるかもしれない。いいかえれば、それぞれの読者がそこに自分自身の影を見るということだ。読者ひとりひとりの受容如何によって、作品はさまざまに変容する。しかし、作品の核心は変わることなく、ひとりひとりに伝わってくると言えよう。

今回、わたしたちはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(一五九五?)を読むことにした。『ロミオとジュリエット』といえば「恋愛悲劇で、愛しあっていた若い男女がお互いの家の仲が悪いばかりに、うまくいかずに死んでしまった」という程度のことは、よく知られている。しかし、それ以上は、有名なバルコニーの場面などは別として、どのような作品かは、ほとんど知られていない。『失楽園』ほどではないにしても、英国から九時間の時差のある国で、書かれてから四百年後に、これから科学を学ぼうとする若者と、シェイクスピアを読むのに不安がないわけではない。しかし、この劇作は四世紀ものあいだ、たえず脚色され上演され、今世紀にはミュージカルを含め、くりかえし映画化され、ずっと人々を魅了してきた。最近では、グイネス・パルトロウ主演の『恋におちたシェイクスピア』(一九九九)、デカプリオ主演の現代版『ロミオとジュリエット』(一九九六)がある。そういうわけで、わたしたちにとって、もっとも親しみのもてる古典のひとつである。新しい発見はないかもしれないが、わたしたちにとっての発見はあるかもしれない。

ただ、十六世紀の英語で読むとなると、短期間では難しいので、白水社版・小田島雄志訳を利用することにした。ほぼ同時期に書かれたと思われる『夏の夜の夢』(一五九五―六)も読むことにしたため、十二回の講義のうち、六回分を割り当てた。テクストの精読だけでは単調になるため、できるだけ登場人物になったつもりで朗読することにした。また、読了したあとで、わたしたちの想像力の限界を補うために、ゼフィレッリ監督、オリヴィア・ハッセイ主演の『ロミオとジュリエット』(一九六八)をヴィデオで鑑賞した。日本語字幕スーパーながら、せりふはほぼ原典に沿ったものであるため、舞台とは違うが、わたしたちが読んできたことを確認できたと思う。読むだけでは理解できなかった点も、映像を見ることによって明確になってきたと思われる。

学生諸君のレポートのなかに、これから英語で全体を読み直してみたいという感想が含まれていたことを考えれば、次回は、原作、日本語訳、映像を題材に『ロミオとジュリエット』だけをとりあげてみたい。たとえ一場面であっても、素朴なかたちで当時の舞台に似せて実演できるようであれば理想的だと思う。今回、朗読という点では、かなりうまくできていたように思う。シェイクスピア劇はもっぱらことばによる表現が中心で、ことばのちからによる想像がもとめられる。衣裳は工夫しなくはならないが、もともと青天井の張り出し舞台で上演されていたため、大道具、小道具など用意するものは少なくてすみそうだ。背景も必要ない。現代はジェンダーの差があいまいになってきたので、当時のままに、男ばかりで上演するのもそれほど抵抗がないかもしれない。

 

この劇の構成を確認するために、以下にそれぞれの幕・場について、簡単に紹介する。

 

コーラス ―― プロローグ(劇全体の梗概を述べる)

一幕一場 ―― 街頭でモンタギュー家とキャピュレット家の使用人が争う

ロミオが恋の悩みをベンヴォーリオに明かす

二場 ―― ロミオがキャピュレット家で晩餐会があることを知る

三場 ―― ジュリエットが晩餐会に来るパリスとの結婚を示唆される

四場 ―― ロミオとマーキューシオが仮面舞踏会に出かける

五場 ―― ロミオがジュリエットを見初める

互いにひかれあい接吻をかわす

その後、互いに仇敵の一家のものと知る

コーラス ―― プロローグ(愛しあいながら会えないふたりを恋の情熱が導く)

二幕一場 ―― マーキューシオとベンヴォーリオがロミオを捜す

二場 ―― ロミオとジュリエットがキャピュレット家の庭で互いの想いを語る

三場 ―― ロミオが修道士ロレンスにふたりを結婚させてほしいと頼む

四場 ―― ジュリエットの乳母がロミオを訪ね、式の段取りを聞く

五場 ―― 乳母がジュリエットにロミオの言を伝える

六場 ―― ロミオとジュリエットが教会で密かに式をあげる

三幕一場 ―― マーキューシオがティボルトに刺殺される

ロミオは仇を討ち追放を宣告される

二場 ―― ティボルトの死とロミオの追放をジュリエットが知る

三場 ―― ロレンスが悲しみにくれるロミオを諭す

四場 ―― キャピュレットはパリスとジュリエットとの結婚の日を決める

五場 ―― ロミオがジュリエットとはじめて一緒に朝をむかえる

ジュリエットがパリスとの結婚を拒否し、キャピュレットが激怒する

四幕一場 ―― 助けを求めるジュリエットに一計を案じたロレンスが眠り薬を手渡す

二場 ―― ジュリエットはパリスとの結婚を承諾する振りをする

三場 ―― ジュリエットがロレンスにもらった薬を飲む

四場 ―― 徹夜で婚礼の準備が行われる

五場 ―― ジュリエットが死んでいるのが発見され、葬式の準備が行われる

五幕一場 ―― ロミオはマンチュアでバルサザーから、ジュリエットの死の知らせを聞く

毒薬を手に入れヴェローナに向う

二場 ―― ことの子細をしたためた手紙がロミオに届かなかった

このことを知ったロレンスは、ジュリエットの眠る霊廟に駆けつける

三場 ―― ロミオはジュリエットの墓に行き、そこに居合わせたパリスを斬る

ジュリエットの側で毒をあおる

目覚めたジュリエットはロミオの死を知り、短剣で胸を刺し果てる

モンタギューとキャピュレットはふたりの純金の像を建立することにする

 

コーラスが途中で消滅していることと、それぞれの場の区切り方が不均衡であることが気にかかる。一幕、二幕のまえに、古代ギリシャ劇のコロスのように、劇の内容を解説したり、本筋を補足するコーラスを入れながら、あとは物語りの進展があまりにはやく口上役の入る余地はなかったかのようである。もともとは、それぞれの幕のまえにコーラスがあったのかもしれない。当時の編集方針では、場の設定については、登場人物がすべて舞台からいなくなった時点で、その場が終わることになっていたらしい。もともとのテクストでは、場面指定や場所の指定もなく、場合によっては幕による区切りもなかったらしい。登場人物の出入りとせりふで観客は想像していくわけである。現在読まれているテクストは、シェイクスピアの時代のものとは違うわけである。ただ、わたしたちには『ロミオとジュリエット』のフォリオ版、クォート版がどうであったかを検討する余裕はなかった。場面指定や場所の指定はあったとしても、きわめて簡単なものであるため、どのような状況か、こころに思い描くことが困難だ。当時の常識の範囲内で想像することができたのか。あるいは、背景はそれほど問題にならないということなのか。三幕五場については、あいまいな読みしかできないかもしれない。追放処分となったロミオがマンチュアに行くまえに、ジュリエットと初めての夜を過ごしたことが分かりにくくなっている。三場でロレンスが「さあ、かねての手筈のとおり、恋人のところに行くがよい。そして、寝室に登ってゆき、…十分になぐさめてあげるがよい」と語る場面を読めば、理解できると思うのだが。二幕六場でも、ふたりがロレンスのもとにあらわれたところまでしか書かれていないために、結婚式がとりおこなわれたことが分かりにくい。観客の想像にまかせている。

悲劇といっても、コミック・リリーフ(重苦しい雰囲気を一時的に紛らすために入れる笑いを誘うような場面、小事件、会話)が随所に見られる。底流を流れるのは悲劇のイメージではあるが、むしろ二幕終了まではコミカルな印象のほうが強い。冒頭、キャピュレット家の使用人サンプソンとグレゴリは性に関することば遊びをかわす。マーキューシオやジュリエットの乳母のおしゃべりは、性的な暗示や卑猥な冗談に満ちている。残念ながら、マーキューシオは三幕一場で姿を消す。乳母も大団円をむかえる五幕には登場しないが、このふたりが衝突する二幕四場の会話は抱腹絶倒ものである。これらは、ロミオとジュリエットの純粋な愛の領域を際立たせていると同時に、ジュリエットのせりふに見え隠れする、純粋な愛の裏側にある情欲を暗示している。途中までは、喜劇として組み立てられたとしても不思議はない。三幕二場で、ジュリエットはロミオが殺されたと勘違いしているときでさえ、「はい」(Aye)、「わたし」( I )と「眼」(eye)を使って洒落を言っている余裕があるようにも聞こえる。また、祝宴が葬儀に変わったとき、マイナー・キャラクターのおしゃべりには、『夏の夜の夢』のボトムなど職人たちの会話を彷彿とさせるものがある。わたしたちには意味が分からない戯言のように聞こえるが、滑稽でもある。

もちろん、悲劇であるからには、それなりの用意はある。開幕いちばんに、口上役が「不運な星のもとに生れた男女が非業の最期」をとげることを予告する。ティボルトは、この物語りの悲劇的展開への序曲を掻き鳴らす。一幕一場で、ベンヴォーリオが治めようとしていた騒ぎを大きくしたり、仮面舞踏会ではロミオに闘いを挑もうとする。二度とも、それぞれ領主とキャピュレットの制止で、その場はおさまったが、懲りないティボルトはマーキューシオを挑発する。ティボルトがいなければ、悲劇へと向うベクトルはない。三幕一場でのマーキューシオとティボルトの死から、物語りは急速に悲劇の様相を呈する。コミック・リリーフもだんだんと低調になっていく。たしかに、最初からロミオは悲劇を予感させるせりふを吐き続けている。仮面舞踏会に参加するまえに、「何ともいえぬ不吉な予感がするのだ。まだ星のあたりで漂っている或る宿命的な事件が、今晩の楽しい宴をきっかけに、その恐ろしい運行を始めるのではないか、そして、非業の死という無情な刑罰を僕に科し、怏々として楽しまなかった、この人生の命脈を断ち切るのではないか、僕はそんな気がしてならんのだ」(一幕四場)。ただ、はっきりと最後の悲劇を予感させるのは、マーキューシオの死に際して、「今日のこの不吉な運命は、やがて来たるべきものの前兆かもしれぬ、これから続いておこる禍の第一歩が今始まったかもしれぬ」(三幕一場)、あるいはティボルト殺しで追放となって、「この町から追放されることは、世界から追放されることです。世界から追われ流浪の旅に出ることは死出の旅です」(三幕三場)と自らの運命をくりかえし予言するからである。三幕五場の別れの朝、ロミオは、「だんだん明るくなってゆく。だが、ふたりの心はだんだん暗くなってゆく」と言う。さらに、ジュリエットまでも、「わたしには何か不吉な予感がいたします」と言い出す。パリスとの結婚を迫られ、「わたしの婚礼の床を、ティボルトが眠っているあの暗い墓場のなかに作ってくださいまし」(三幕五場)とも言う。このように、コミカルな流れが消失してゆくにつれて、わたしたちのこころに悲劇の予感が浮かび上がって来る。

この劇、もとは、九ヶ月以上にわたっていた劇の展開を、わずか五日間の出来事に仕立て直し、二時間で演じることになっている。「ロザラインにつれなくされ、ハムレットばりに憂鬱な雲を抱えていたロミオが、ジュリエットとの恋に酔いしれるまもなく結婚するが、つづいて起こるマーキューシオとティボルトの死により、絶頂から奈落におちる。ロレンスの機転で、駆け落ちを計画するふたりであったが、運命のいたずらか、つぎつぎと起こるすれ違いのため、結局自殺する。」話の展開が速すぎて、めまぐるしさを感じずにはいられない。ロミオは、ジュリエットのいとこ、ロザラインを、「あまねく照覧する太陽も、この世の初めから、あの人にならぶ美人を見てはいない」と絶賛しながら、ジュリエットをひとめ見るや、「俺は、今宵はじめてほんとうに美しい女を見たのだ」と言い、ロザラインについては、「その陳腐な名、その名の悲しみは忘れました」と語る。ジュリエットのほうもロミオにひとめぼれする。わたしたちは、日常のレヴェルに引き寄せて考えるとき、いささかふたりの恋の信憑性を疑うことになる。ロミオの最初の恋は観念的なもので、恋に恋する状態かもしれない。ロザラインは人物としては登場していなくて、仮面舞踏会の招待客のリストにジュリエットの「いとこ」として載っているにすぎないが、ロミオがキャピュレット家に出向くきっかけになっている。ジュリエットのほうも、パリスとの結婚をほのめかされ、男を見る目を開かされている。ロミオとジュリエットは、舞台の枠のなかで純粋な時間を生きているのだ。はじめての出会い、バルコニー・シーン、(そして、わかれの朝)、十四行詩による様式化されたふたりの掛け合いは、ゆったりとした時間の流れを感じさせる。結婚を決意するまでの時間は短く見えても、ふたりの恋が成長するのに十分な時間であるように思われる。バルコニー・シーンの最後、「明日の九時に使いをよこしてほしい」と言うロミオに、ジュリエットは「十年も二十年も先のことのような気がする」と言っている。ロザラインに相手にされないロミオは、「気が重いときには、時間がたつのが遅いものだな」と言うし、ジュリエットは、使いに出した乳母を待ちながら、「恋の使者は速いはず」と待ちきれない。つまり、わたしたちのように時計で時をはかる世界の住人とは違うのである。それはまた、ソネット一一六番に見られるような、キリスト教徒にとっての時間意識、つまり、世界の創造、イエスの誕生、その死と復活、そして最後の審判というひろがりをもった時間意識でもない。そして、他の登場人物とも違う時間を生きているのだ。

時代的背景を了解していないわたしたちには、父と娘との関係は少し異様に感じられた。『夏の夜の夢』でもそうだが、父親の命令には絶対服従することを求めている。「おまえはわしの娘だ、だからわしの気に入った男にやるのだ」とジュリエットにパリスとの結婚を強要するキャピュレットは非情な父親である。しかも、いとこのティボルトが亡くなって、二、三日のうちに結婚式をとりおこなうことにしているのは、不自然である。それに、一幕二場ではパリスに対してキャピュレットは、「わたしの考えなどは、娘が承諾すれば、ただの飾り同然。娘さえ、うんと言えば、すべてあれの諾否如何にかかっている以上、わたしの承諾も色よい返事も、もうきまったも同然」と述べていることとも、この段階では、まだジュリエットを結婚させたくなかったためにしても、矛盾する。これが本当なら、ロミオと結婚できるはずである。テキストの冒頭、登場人物の紹介があるが、身分の高い者から低い者へ、男性が紹介されたあとに女性が紹介されている。現在ならば、おそらく主役のロミオとジュリエットが一番先であろう。

修道士ロレンスは、とくに後半、悲劇の展開を大きく左右する役割をになっている。すでに、ロミオに結婚式をあげてくれるように頼まれたとき、「この縁組みがうまく成功すると、お前様たち両家相互の憎しみも、心暖まる和解に変えてしまうことができるかもしれぬ」と、確たる見通しもなく口にする。「いかなる徳も、その正しき適用を怠れば悪となり、いかなる悪もこれを活用すれば善となる」などと、賢者ぶったことを言い、薬草の知識を使って、浅はかにも、ふたりの逃避行の計画を考える。ジュリエットの葬儀に際しては、仮死しているのにすぎないことを知っていながら、まことしやかに、「結婚して長く生きるがしあわせな結婚ではない、結婚して若く死ぬのがまことのしあわせな結婚だ」とキャピュレットに説く。墓場では、眠りから覚めたジュリエットを救うことができなかった。自らの保身を考えて、慌てて霊廟を離れるロレンスは、結局ロミオとジュリエットの側に立つ人ではなかったと言える。また、ジュリエットに睡眠薬もしくは麻酔薬とおぼしきものを調合するロレンスは、正しい薬の使い方をしているとは言えない。貧乏な薬種屋は金に目が眩み、ことが発覚すれば死刑になると知りながら、ロミオに毒を販売した。ふたりの貧しい倫理感を、わたしたちのなかに指摘するものがなかったのは、この芝居の魅力にすっかり、とりつかれていたからであろうか。失望したといえば、乳母も、パリスとの結婚を強要され悩むジュリエットに、ロミオをあきらめパリスと結婚するように進言する。したたかに人生を生きてきた女性としては、当然かもしれないが、やはり、ジュリエットの側に立ってはいないことが分かった。この三人は罰せられても当然であろう。ただし、筋としては、とくに五幕では、運命のいたずら、すれ違いが目につく。事情を記したロレンスからの手紙がペストの検疫のためにロミオに届かない。ロミオがロレンスよりも先に墓場に到着する。ロミオはジュリエットが死んだと思い込み、毒薬を飲む。ジュリエットはロミオが死んでから目覚める。ジュリエットの死(仮死)の原因を問うものがいなかったのは、死が日常化していたためであろうか。ロミオは納骨室でジュリエットと対面して、「妻よ、おまえは征服されてはいない。美の旗標が、まだ唇にも頬にも紅く光り輝いている。そして、そのどこにも、あの死の蒼白い旗がまだ翻ってはいない」とまで言っているのに。たしかに、キャピュレットは「頼みとした子どもたちも皆死に絶えて…」と言っている。この時代、出生率も高かったが、死亡率もかなり高かったらしい。

シェイクスピアの他の劇作同様に、『ロミオとジュリエット』にも種本がある。この原型は、かなり古くから民話として語り伝えられ、シェイクスピアはアーサー・ブルックの詩『ロミウスとジュリエットの悲劇の物語り』(一五六二)を参考にしたと言われている。わたしたちはブルックの詩も、そのもとになっているイタリアのバンデルロ作の小説(一五五四)も比較検討していない。それでも、この作品から道徳的教訓のにおいを嗅ぎ取るのは、そう困難なことではない。ロレンスの「恋はほどほどにするものだ」とか、キャピュレットの「思えば、ふたりは親たちのいがみ合いの犠牲でした」というせりふを読めば、シェイクスピアは「急ぎすぎた若いふたりの情熱的な恋のあやまち」や「若いふたりのいのちを犠牲にしてしまった両家の愚かさ」を戒めているようにも聞こえる。たとえ、駆け落ちがうまくいって、ふたりがマンチュアで暮らしたとしても、悲劇的な色合いが多少薄まったにすぎない。『夏の夜の夢』のような、めでたし、めでたしの結末は望むべくもない。こう考えると、両家の確執は、ふたりのしあわせにとって、決定的な障壁であった。ロミオもジュリエットも名前を捨てようと宣言はしたが、実際は捨てることはできなかった。また、ふたりの不幸な死は共同体に平和をもたらしたが、ふたりを純金像のかたちで記憶することに、どれほどの意味があろうか。

若いふたりは運命に翻弄され、自らのいのちを断った、悲劇のヒロインとヒーローには違いない。だが、そういう消極的な見方だけでいいのだろうか。いな、愛しあうふたりは、短かったが濃密なときを、精一杯生き抜いたとも言えるのではないだろうか。悲しみだけで終わるのはいかにも悲しいではないか。シェイクスピアは『ロミオとジュリエット』と同時期に書いていたと考えられるソネット一一六番では、愛というものをつぎのように定義している。

 

たとえ、時という曲った鎌が、ばら色のくちびるとほほを、刈り取ろうとも

愛は、時に左右されるような道化師ではない。

愛は、はかない時間が過ぎても、変わることはなく、

最後の審判のぎりぎりまでも、もちこたえるものだ。

 

遅かれ早かれ、わたしたちは老いと死をむかえる。しかし、たとえわたしたちが滅びても、真実の愛は、最後の審判のときまで、不滅だと言っている。こんなことを、ロミオとジュリエットが考えていたとは思わないが、ふたりの愛は純粋なものであった。一方が死に、一方が生き残るということは考えられなかっただろう。ふたりが死を恐れるようには見えない。死んでしまえば、ふたりは同じ世界に生きることができたのかもしれない。この悲劇に、「運命の影よりも摂理の姿」を見るまではいかなくとも、ふたりの愛は、肯定的にとらえることができそうである。バルコニーで長く語らったふたりが別れる際に、ジュリエットはロミオに「別れがこんなに甘く悲しいものとは、わたしは知りませんでした」と言う。甘い愛を語り合うふたりにとって、別れることは悲しいが、いつまでも一緒にいられるわけではない。充実した時をかみしめると同時に、次の出会いを楽しみに、甘い悲しみであったかもしれない。また、ふたりは、はかないが、激しい恋を生きたことは確かである。愛するひとを失ったことは悲しいが、愛する人のあとを追うことで、いつまでも一緒にいられると思うと、甘い悲しみであったかもしれない。

やっと名前と顔が一致しはじめたときに、充実した時を共有した学生諸君とのゼミが終わるのは悲しいことだが、『ロミオとジュリエット』の世界から解放されて、ほっとしている。ヴェローナの暑かった一夏の出来事には、青春の熱情とともに、ロミオの死に対する願望、脇役マーキューシオの謎など、暗い深淵があるように感じられる。この作品は、『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、そして『マクべス』の四大悲劇に比べれば、評価は低いが、まだまだ、読み切れないことが多くあるように思える。このもどかしさを解決するのは、次の機会に譲ることにしたい。

 

参考文献

 

岩崎宗治編注『ロミオとジュリエット』(大修館書店)

小田島雄志訳『ロミオとジュリエット』(白水社)

平井正穂訳『ロミオとジュリエット』(岩波文庫)

高橋康也・樺山紘一『シェイクスピア時代』(中公新書)

千田是也『演劇入門』(岩波新書)

高田康成他編『シェイクスピアへの架け橋』(東京大学出版会)

G. B. Harrison, Introducing Shakespeare, Penguin Books, 1939.

Allardyce Nicoll, ed., Shakespeare in His Own Age, Cambridge University Press, 1976.

Harold Bloom, Shakespeare, The Invention of the Human, Riverhead Books, 1998.

 

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