科学と詩 ホプキンズの二つの小品
楠瀬 健昭
Gerard Manley Hopkins(1844-1889)の小品二篇を取り上げる。91番は虹、103番は彗星を読み込んでいる。両者ともに1864年夏の作品で、ひとつは光学上の、もうひとつは天文学上の科学的知見に対するホプキンズの認識が巧みに表現されている。それは、科学と詩の見事な融合である。科学も詩も、その表現方法は違うが、世界の事物を観察、解釈、言語を用いてわれわれに発見したことを伝えようとする点に変わりはない。以下に、それぞれ、ホプキンズのオリジナル、拙訳、それに詩の解釈を記すことにする。
91
It
was a hard thing to undo this knot.
The
rainbow shines, but only in the thought
Of
him that looks. Yet not in that
alone,
For
who makes rainbows by invention?
And
standing round a waterfall
See
one bow each, yet not the same to all,
But
each a hand’s breadth further than the next.
The
sun on falling waters writes the text
Which
yet is in the eye or in the thought.
It
was a hard thing to undo this knot.
この結び目を解くのは難しいことだった。
その虹は輝いているが、見ている人の
思いの中でのみである。だがそれだけではない、
なぜなら誰も虹をでっち上げることはない。
滝の周りに立って、それぞれの人が虹をひとつ、
それでいて、みんなが違う虹を見る、ひとつひとつの虹は
となりの虹よりも手の幅ほど離れている。
日光は落ちていく水の上にそのテクストを描くが
それは見ている人の目か思いの中にある。
この結び目を解くのは難しいことだった。
脚韻はabcdeeffbaである。一行目と最終行はまったく同じ詩行の繰り返しである。繰り返しはよく見られる詩作上のテクニックであるし、ホプキンズの場合もしばしば見られるが、行全体の繰り返し、しかも最初と最後の行に現れるのは珍しい。問題の解決がいかに困難だったかを強調しているのか。あるいは問題が完全には解けていない、もしくは解けていても納得するところまではいっていないようにも聞こえる。この二行は残りの八行を挟み込み、いかにも難問(knot)であると言っているようにも思える。八行のうち最初の三行で問題を提示、次の三行でさらに展開し、残りの二行で答えている。もう一度脚韻に注目して全体を見れば、最初の二行と最後の二行は交錯配列(chiasmus)になっている。三行目四行目がcoupletになっていれば、その脚韻はabccddeebaとなり、きわめて統一の取れた形になるが、均衡が取れすぎるのを嫌って、あえてそうはしなかったのであろう。詩の技巧という点では、一見したところ、それほど見るべきものはないように思われるが、難問(knot)は解けない(not)とでも言うように、”knot”と”not”とが同音で響きあっているようである。「この結び目」”this knot”つまり「この難問」は、「虹」”The
rainbow”のことであり、次には”next”、「テクスト」”text”と言い換える。また、滝を表すのに「水落」”waterfall”と「落水」”falling waters”を用いているところが目に付く。
さて、この詩は、水が落ちるときにはねる飛沫に太陽の光が当たって生み出す虹が、滝の周りに立っている人たちに、どう見えているかを詠っている。すなわち、虹が輝いて見えるのは、人が見てそう思っているからだと言う。人が見ることによってはじめて虹は存在する。それでも、人がそう思わなければ虹は存在しないということはない。そこに見えてもいない虹を、人がかってに想像することはありえない。つまり、確かに虹は存在している。それでは、虹とそれを見る人たちとの関係はどうなっているのか。滝の周りに立っている人たちは、それぞれひとつの虹を見てはいるが、みんな同じ虹を見ているわけではではない。どう違うのか。それぞれの人の立っている位置によって少しずつ、詩の中の表現では「手の幅(四インチ)」の距離、違った虹を見ていることになるという。まとめとして、詩人は太陽光線が滝水に当たって虹が生まれるが、それを見る人によって、虹の見え方は違うのだと、締めくくっている。つまり、虹は最初から滝の付近に存在していたのではなく、太陽光線が飛沫に当たり反射して虹が生まれたようである(ホプキンズの表現では空中の水滴が光を屈折、反射さらに屈折してとまでは、読み取りがたい)。また、見る人の立つ位置によって、虹は違って見えているようである。
ここで詩人は「テクスト」という比喩を巧みに使っている。作者はあるひとつのテクストを書くが、それが詩であれ、小説であれ、いったん読者の手に渡ると、同じひとつの作品でありながら、それを読む人によって解釈は様々である。虹とそれを見る人たちとの関係を読みながら、この比喩の部分で思わぬ発見をした思いである。滝の飛沫と日光とが交差して織りなす結び目の集合体である虹というテクストを、読み解く側はそれぞれの立場の違いによって、同じひとつのテクストの結び目を、それぞれの目、つまり心で解きほぐそうとするのが習いである。この多様な読みを会わせることによって、ひとつのテクストが浮かび上がってくるのであろうか。このような、テクストと読者の関係は、文学理論の時代では常識的であるのかもしれない。しかし、「日光は落ちていく水の上にそのテクストを描く」という表現、それにこれが140年前の詩の中に書かれていることは新鮮な発見である。
このような見解はどこから生まれたのかはわからないが、まったく同じような記述はRoger
Bacon(c.1219-1292)著Opus Majus(London, 1733)の第六部第七章に見られる。ここでベーコンは「虹が生ずるのは直射光線によるのか、それとも反射によるのか、それとも屈折によるのか」という疑問を解決するために経験で実証しようとする。虹を観察する者が移動するにつれて、虹は観察する者と同じ距離をおいて移動する。すなわち、観察者が虹に対して平行に移動すれば、虹も平行移動する。虹に近づくように移動すれば、虹は遠ざかる。虹から遠ざかるように移動すれば、虹は近づいてくる。「虹は見る人間の数に応じて数えられる。…二人がひとつの同一の虹を見ることは不可能である。」このことから、ベーコンは「虹はただ太陽の反射光線によってのみ見られる」と結論づけた。もし、屈折や直射によるのであれば、虹はひとつの場所に固定されたものであり、観察者の動きとか人数に応じて変化することはないからである。
ベーコンは第六部第二章から第十二章にかけて延々と虹について持論を展開する。今紹介した部分だけでも、理解しがたいことは多い。ホプキンズが『大著作』を読んだのかどうかはわからないが、ともかくベーコンの考えを参考にこの詩を書いた可能性はある。ただし、虹はDietrich von Freiburg(c.1250-1310)が解明したように水滴内における光線の反射と屈折の二つの過程を経てできるのであり、ベーコンの結論は不十分である。また、虹についての研究はアリストテレスに始まり、デカルト、ニュートンによって古典理論の完成をみており、ホプキンズがこの詩を書いた1864年の時点ではヤングが光の干渉理論によって、過剰虹の説明に成功し、エアリ−は光の回折理論によって、波動光学的な虹の理論を創設するなど新しい局面に入っていた。それでも、ホプキンズの関心は虹の古典理論的な部分にあった。なお、ホプキンズはIl Mystico(1862)、The
Rainbow(1864) 、The Caged Skylark(1877)においても虹を取り上げている。虹についての言及はJournalの中にも散見する。Il
Mysticoの中ではdouble rainbowに言及するなど、虹に対して並々ならぬ関心を抱いていたようである。二重の虹といえば1872年6月24日の日誌で図を示しながら主虹と副虹の間が暗く見えること、二つの虹の色の配列が逆になること、などを正確に表現している。ここまで考えると、この詩の最初の二行、最後の二行の脚韻ab…ba(しかも二行目と九行目の末尾はともに”in the thought”である)は二重の虹のかたちに見えてくる。虹についての考察のくだりは、謎であるから、暗く見えるのも当然である。
103
---I
am like a slip of comet,
Scarce
worth discovery, in some corner seen
Bridging
the slender difference of two stars,
Come
out of space, or suddenly engender’d
By
heady elements, for no man knows:
But
when she sights the sun she grows and sizes
And
spins her skirts out, while her central star
Shakes
its cocooning mists; and so she comes
To
fields of light; millions of traveling rays
Pierce
her; she hangs upon the flame-cased sun,
And
sucks the light as full as Gideon’s fleece:
But
then her tether calls her; she falls off,
And
as she dwindles shreds her smock of gold
Amidst
the sistering planets, till she comes
To
single Saturn, last and solitary;
And
then goes out into the cavernous dark.
So
I go out: my little sweet is done:
I
have drawn heat from this contagious sun:
To
not ungentle death now forth I run.
私はほっそりとしたほうき星のよう、ほうき星は
ほとんど見るに足りないもの、どこかの片隅で
星と星とのかすかな隙間をうめるもの
宇宙のかなたより現れたのか、大気の中で激しい自然の力によって
にわかに生まれたのかわからない、誰も知らないことだから。
でも、生まれたら、ほうき星はどんどん成長、大きくなって
くるくる回りスカートを広げる、またその星の中心は
繭のような霧を振り払う。そうして星は光の舞台に現れる。
数え切れない光が走り、星を貫く。
星は炎に包まれた太陽にさしかかると
ギデオンの羊の毛と同じように光をすべて吸い取る。
しかし、そのとき自分をつないでいる鎖に引かれる。星は遠ざかり
しかも、だんだん小さくなるにつれて、姉なる惑星たちに囲まれて
黄金のスモックドレスを引き裂く、ほうき星はやがて
一人ぼっちの土星に到着、土星は最後の惑星、孤独な星。
それから太陽系を離れて洞窟を思わせる暗黒へと入っていく。
私もそのように消えてゆく。私のささやかな喜びは終わり。
私はこの太陽からうつりやすい熱をもらっていたが、
今は高貴な死へと向かいひた走る。
この断片はFloris
in Italyという未完の劇の中で、フローリスに恋していたGuiliaが彼につれなくされ、眠っている恋人に別れを告げる独白の部分のせりふだと考えられている。ちょうど太陽は自分の周りを回っている惑星や彗星のことを気にかけないように、フローリスはジュリアの価値を認めず、彼女のいとこに惹かれている。この詩は無韻詩(blank verse)である。もちろん書き出しの”I am
like a slip of comet”は強弱四歩格(trochaic tetrameter)になっているのをはじめ、全体が弱強五歩格(iambic pentameter)で統一されているわけではないが、五行目あたりからほとんどの詩行は弱強五歩格である。”But soft, what light through
yonder window breaks?” (Romeo and
Juliet. 2.1.44-5) のように、Shakespeareが劇中のせりふに多用したものと同じリズムで書かれている。W. H. Gardnerによれば、”heady
elements”, “sistering planets”, “my little sweet is done”などの表現はシェイクスピアを手本としているようである。ただし、最後の三行だけは韻を踏んでいる。内容的にその前の彗星の動きを説明する部分とは違い、語り手が自分の運命を述べるからであろう。なお、土星が太陽からもっとも遠い惑星であり、衛星を持っていないこと(To single Saturn, last and solitary)、彗星がどのようにできたのかについて定説がないこと(Come out of space, or suddenly engender’d /
By heady elements, for no man knows)、などこの劇作の設定する時代はルネサンス期と考えられる。すでに1781年に天王星は発見され、ホプキンズの時代、1846年には八番目の惑星、海王星およびその衛星Tritonが発見されている。1848年には、土星の八番目の衛星Hyperionが発見されている。
ホプキンズは実際に特定の彗星を観察して、それをもとにこの詩を書いたのであろうか。彗星の出現から消滅まで、きわめて専門的に述べられていて、専門家が望遠鏡を用いて観察を続けなければ、とてもこのような描写は得られないように思える。日誌の中では二ヶ所彗星に言及しているところが見られる。1872年11月27日のBiela’s cometと、1874年7月13日の彗星(Coggia’s comet)であるが、こちらには名前は書かれていない。ただし、こちらの方が彗星の描写としては興味深い。ホプキンズは実際に肉眼で彗星を観察することがあったこと、彗星が西の空に「バドミントンの羽根のように浮かんでいる」(この彗星は実際に柔らかく広い尾を持っていた)など、その描写が的確なことがわかるからである。”The comet―I have seen it at
bedtime in the west, with head to the ground, white, a soft well-shaped tail,
not big: I felt a certain awe and instress, a feeling of strangeness, flight(it
hangs like a shuttlecock at the height, before it falls), and of threatening.” ただし、彗星が惑星間を通過し、宇宙の果てに消えていくなどの場面は、直接には見られなかったと思われる。したがって、書物などで得た知識に基づいた観念的な側面も否定できないように感じられる。
天文学者David H. Levyによれば、1858年にはDonati’s comet、1861年にもまた別の巨大な彗星Tebutt’s comet、さらに翌年Comet Swift-Tuttleが出現し、この彗星についてはCornhillという文芸誌に詳細が掲載されたそうである。ホプキンズはこの雑誌の愛読者であった。この詩が書かれた1864年には、7月4日Comet Tempel-Respighi(Tempelよってフランスはマルセイユで、翌日Respighiによってイタリアはボローニャで)が発見された。8月8日には地球からおよそ1500万キロメートルを通過した。Levyの意見では、もちろん、他の彗星も念頭にあったと思われるが、ホプキンズは記憶にもっとも新しい彗星をモデルにしたということである。
以下、彗星についてはレヴィを主なよりどころに、ホプキンズの表現の的確さを確認したい。最初に自分は細長い彗星のようだと語るジュリアは、次の四行で彗星の発生初期の状態と起源についてきわめてコンパクトに表現している。彗星がわれわれに見えるようになる初期のころには、どの彗星もほとんど見えないほどかすかなものであるそうだ。そのため二行目の”Scarce worth discovery”という表現は的を射ている。三行目”Bridging the slender difference of two stars”はどのようなイメージであろうか。レヴィの推測では、詩人は自分が観察した特定の彗星を思い描いている。たとえば、1858年のドナティ彗星は発見されたとき、Epsilon Leonisという星の近くにあって13 Leonisという星の方向にゆっくりと移動していたそうである。もっと可能性がありそうなのは、1864年のテンペルーレスピギ彗星の方で、8月1日のLondon
Timesに、「まもなくIota in AurigaとBeta in Taurusという二つの星の間を通過する」という記事が出ている。ホプキンズはこの彗星が、この二つの星のわずかな隙間を通過するのを、実際に肉眼で確認したかもしれない。さらに詩人は、彗星の起源について、四、五行目で語るが、おそらく、”for no man knows”の後には”whether comets have come out of space or they have been suddenly
engendered by heady elements in the atmosphere”といった内容が省略されているのだろう。彗星が地球の大気圏で発生するという考え方はアリストテレスにさかのぼるが、ヴィクトリア時代には、そうではないことは一般の人たちにもわかっていた。
さらにジュリアは、次の11行の中で、彗星が太陽に近づき絶頂期をむかえてから、太陽系を去るまでの動きを説明しながら、自分の運命を語る。太陽系のかなたから飛んでくる氷とチリでできた微小天体は、太陽に近づくと長い尾をひくようになり、よく知られている彗星の姿になる。「太陽を見る」”see [sight] the sun”といえば「生まれる;生きている」という意味でもある。詩人は六行目を最初”But when it sights the sun”としていたがitをsheに変えることによって、彗星が女性であるイメージを強調し、七行目の”And spins her skirts out”につなげている。ジュリアは自分のことを彗星のようであると言いながら、この段階では彗星と自分を完全に同一視して、彗星の動きを恋人の見ている前で「くるくる回って踊り、スカートを広げ」彼の気を引こうとする自分の姿と重ねているようである。
「中心の星」”her central star”はどうやら彗星の中心、氷の塊「核」を意味しているようである。彗星の核は太陽に近づくとその熱にあぶられて氷の部分が溶けはじめ、水蒸気として宇宙空間に放出されるそうである。この周りのボワッとした部分は「コマ」”coma”と呼ばれる。「繭を作る霧」”cocooning mists”とはこのことかと思われる。ジュリアの心も、恋人の視線を意識して溶けはじめ、霧のような秘密の繭に変わろうとしていたのであろうか。「コクーニング」とは、カイコが繭の中にいるようすから、人付き合いを避けて自分の殻に閉じこもっていることである。氷が溶けはじめると、氷に閉じ込められていたチリも解放されて、ともに尾を作る材料になる。「繭のような霧を振り払う」”shakes its cocooning mists”とは、彗星の頭から尾の方向に間歇的にガス状のものが放出される様子を表わしているようだ。レヴィの見解によると、1858年、61年、62年の彗星では、このような様子が十分観察されたようである。1862年のスイフトータトル彗星では、まれな現象であるそうだが、太陽の方向に噴出物が離脱、放出されたようである。ホプキンズはここでも、実際の観察に基づいた表現を用いた可能性が高い。
次の四行ほどは、彗星が太陽に再接近してもっとも輝いているときのことを表現しているが、もちろん踊るジュリアも恋人に再接近してもっとも魅力的になっているはずである。「星は炎に包まれた太陽に差しかかる」”she hangs upon the flame-cased sun”とは彗星が太陽にかぶさるほど接近している意味である。1861年の巨大彗星は昼間でも見えるほどの明るさだったそうである。「ギデオンの羊の毛」があたりの露をすべて吸い取った(士師記6:36−40)ときのように、彗星が太陽の光をすべて吸い取ったという表現もうなずける。ジュリアは恋人の目のすぐ前にいて、視線は自分だけに向けられて、最高に輝いている気分である。なお、1864年当時、彗星が光を吸収し再放出しているのか、単に太陽光線を反射しているのかについては、統一見解はなかったようである。彗星はネオンの光のように、太陽エネルギーを吸収し再放出して光を発する。この意味でも、詩人の表現は的確である。
さて、次の五行は彗星の消滅までを詠うが、絶頂期をむかえたときに、彗星は衰退し始める。「自分をつないでいる鎖に引かれる」”her tether calls her”という表現も巧みである。彗星は太陽の引力に支配されていて、太陽をひとつの焦点として楕円形、もしくは放物線上の軌道を描く。”tether”は束縛、動物をつなぐ綱であり鎖である。鎖につながれた動物はある一定範囲以上は動けないが、踊るジュリアはもっとそばによりたいと思いながら、それ以上愛しい人には近づけないのであろうか。”calls”は”pulls”とすれば意味ははっきりするであろうが、詩の表現では音も重要である。おそらく同じ行の”falls”との中間韻(internal rhyme)を意識したのであろう。地球が1861年の巨大彗星の尾を通過したとき、彗星は金色を帯びていたそうである。したがって「金色のスモックドレス」”her smock [dress] of gold”も事実に基づいているかもしれない。
ホプキンズは十四行目を”Between the sistering planets”から”Amidst
the sistering planets”に変更したが、土星が太陽系で一番外側を回る惑星だとしたら、地球から外には火星と木星しかないわけだから、”Between”で十分だったかもしれない。太陽に接近した後に水星、金星、地球、火星、木星に囲まれた空間で衰退していくというのなら、”Amidst”の方が的確なのだろうか。もう一度、ジュリアのことを思い出せば、フローリスから離れていくとき、「他の女性たち」”the sistering planets”に囲まれた中で、「金色のスモックドレス」を脱ぎ捨てていることになる。そして、”single Saturn”はもちろん衛星を持たない土星を表現しているわけであるが、”single, …last, solitary”という形容詞はジュリアにもあてはまるように聞こえる。同じように、最後から二行目の”this contagious sun”は女性に人気のあるフローリスのことであるが、この熱に感染したのはジュリアや他の女性たちである。最後にジュリアは心を寄せたフローリスに振られたことは、自分にとって「ささやかな楽しみ」だった、見苦しい姿を見せずにこの世の舞台から消えてゆくと語っている。
[参考文献]
The Poems of
Gerard Manley Hopkins. Ed.
W. H. Gardner and N. H. MacKenzie. Fourth edition.
The Journals and Papers of Gerard Manley
Hopkins. Ed. Humphry
House, completed by Graham Storey.
W.
H. Gardner, Gerard Manley Hopkins
(1844-1889) : A Study of Poetic
Idiosyncrasy in Relation to Poetic Tradition. 2 vols. Second edition.
David
H. Levy, Starry Night: Astronomers and
Poets Read the Sky. Prometheus Books, 2001.
ロジャー・ベーコン著、高橋憲一訳『大著作』朝日出版社(1980)
西條敏美著『虹−その文化と科学』恒星社厚生閣(1999)