戦記
—父と母に—
松崎一平
1
長く感じられた冬もようやく終わろうとしている。が、事態はいっこうに変わってはいない。古い政府と新しい政府はあいかわらずいくさを続けているといううわさだし、どちらが優勢かについても、うわさはまちまちだ。政府がもう一つ現れて、三つどもえのいくさが始まったといううわさもある。わたしにとっては、正直にいって、どうでもいいこと。大事なことは、一日一日をどうのりきるかということだ。
いくさが始まり全体をまとめていたシステムが完全に崩壊して、ものの流通がごく限られた地域でしか成り立たなくなった結果、生活がとても窮屈になり、食べることだけで精いっぱいな状態が、もう三年以上も続いている。すべては食欲を満たすための営みだ。冬にいくさが始まり、じきにものの流れがとだえて、食料不足がしだいに深刻になり、いくさの終わる可能性が乏しいことが実感されてくると、ひとびとは食料の確保に腐心し始めた。学校や役所ははじめのうち、それなりの機能を果たしてはいたが、こどももおとなも、なによりもまず、食料の確保を心がけ、努力し、その上で心身の余裕があれば、自分の義務を果たすという具合になってきた。時がたつにつれて、義務を果たす余力はなくなり、厳しい冬と猛暑の夏を経て、昨年の秋くらいからは学校も役所も、いわば物好きたちが時たま集まるだけで、せいぜいが情報交換の場にすぎなくなった。商店や工場は、いくさが始まってすぐに機能しなくなった。商品はどこからも届かなくなったし、原料も手に入らず、たとえ製品ができたとしてもこの土地から持ち出すことができなくなった。(それでも、医薬品の入手は何とかうまくいっているらしく、地域に一つの総合病院は表向き、以前と同じように活動しているし、それを中心にした個人病院とのネットワークも機能してもいる。いままでのところ幸いに、なにかの病気が流行するということもなかった。)飛行場ははじめからないし、道路も鉄道線路もいくさが始まって間もなくのころ、いたるところで寸断され、港も徹底的に破壊されたからだ。不思議なことに電気は届いているので、電気製品は使える。ひとびとがある程度冷静さを保つことができてきたのは、電気製品がおおむね利用でき、そのおかげでいくさが始まる以前と大差のない生活ができているからかもしれない。一方で電波には幾重にも妨害工作が行なわれているらしく、テレビやラジオも、きわめて不安定にしか放送を受信できない。大部分の剥落してしまったモザイク画と同じで、全体についての情報はほとんど手にはいらず、かえって様々な推測を生み出すばかりで、混乱に拍車をかけている。私がこどものころ全面的に無線化してしまった電話にしても、地域の外部からの送信については気まぐれにしか受信しない。地域内の交信についてはほぼ完全に機能している。このこともまた、この土地がおおむね平穏であってきたことの理由だろう。
もっとも、この地方はもともと世の中の流れから取り残された土地ではある。二つの切り立った岬に南北をさえぎられた馬蹄型の広々とした湾の、最も深く陸地に入り込んだあたりに、北川と南川が河口をほぼ共有するかたちで海に流れ込み、河口を中心とする半円状のこぢんまりとした沖積平野を形成しているが、平野は東方で、切り立った標高七百メートルから千二百メートル程の山の連なりにふさがれ、連なりは北と南で、等しく西方に向かって腕を広げ、あまり低まらずに南北にのびたけわしい山並みに呑み込まれている。要するに東方だけが海に向かってひらけ、それ以外の三方は山並みに取り囲まれており、[1]北川だけが山脈をうがって谷をなし、東方の地域に通じている。道路も鉄道もその谷沿いに他地域につながっているのみで、いくさが始まってじきに、いずれも寸断されてしまった。港もあるにはあるが、いくさの始めのころ、銀色に輝く巨大な爆撃機が東方から飛来して、三発のミサイルで港だけを見事に破壊して船舶の係留を不可能にして以来、ぜんぜん修理されていない。沖積平野だけが人の住むのに適した土地で、ちょっとした街区となっていて、そこに地方の大半の住民が暮らしていた。近代以前には海上交通の要所としてそれなりににぎわい、小規模ながら色街もあったと、この土地に住み始めた当初
、そのころ[2]ブームだった郷土史研究に首を突っ込んでいた時に、何かの史書で読み、おどろき、色街の跡地にその名残を探そうとしたことがあるが、現在の状態からは推測するすべもなかった。海上交通がこの土地を素通りするようになると、急速にさびれたらしい。土地が限られていて、かろうじて自給できる程度の農地しかなかったのが、土地の活気がなくなった主たる原因だったように思う。近代になっていくつかの工場が建設され、五十年ほど以前には当時の最先端の電子部品を生産する工場もできて、なんとか町としての生気を保ってはきた。国や県の出先機関が、町の規模からすると不釣り合いなくらいにあって、土地のひとびとにある種の誇りを与えてはいた。工場も政府の出先も、先進的な設備を誇る総合病院も、三代続いて国会議員を出し続けているS家の力量の結果だということだ。むろん、いくさが始まって以来、選挙は行われていず、町には事務所があるだけのS家のひとびとも町に姿を見せることはなく、彼らがどのようにいくさと関わっているのか、だれも知らないし、知る必要もなかった。いくさは、これまでのところ遠い世界のできごとで、町のひとびとにとっては、自分と身近なひとびとのことだけが、なによりも食べることだけが関心事だ。いまのところ食べ物は、努力すれば、緩慢なペースでではあるけれども、かならずそれに見合う程度に手に入る。病気になっても以前と同じ程度の医療に与かることができたし、印象として、病気になることが少なくなってもいる。おかしなことに、銀行も電子的には完全に機能していて、時々ATMで調べてみると、公務員であるわたしの給料は毎月月末にきちんと銀行口座に振り込まれている。もっとも、昇級することもないしボーナスも支給されない。お金はなお有効ではあるが、品物が極端に乏しくなってしまったので、あまり使うこともなく、貯まるいっぽう。いくさは、ひとびとの最低限の生活を可能な限り壊さないように配慮しながら行なわれているらしい。
2
否応なく始まった、閉じられた土地でのつましい生活。それはいろいろなことを思い出させてくれる。思い出の中身は、かならずしもわたしの経験したことばかりではなく、祖父母や両親から聞いたこと、読書を通して知ったことも含んでいる。自分の体験したこととして何か懐かしい感じがするというのではなく、もっと普遍的な懐かしさが、思い出にはともなうのだ。たとえば野菜の種蒔き。小学校時代に授業として経験した程度だったのが、以前から二メートル四方程の花壇を耕して花を植えてきて、その分手慣れている妻や娘をみならいながらやってみると、気分の点で、天職ではないかと思えるくらいに、こころにしっくりとくる。むろん、三人とも技術的にひどくお粗末だし、狭い上に土壌のよくない庭を拓いた畑だからか、収穫は予想外に少なく、落胆することが多いが。
一月に一度程度学校を訪ね、たまたま顔を合わせた同僚や生徒と近況を報告し合うだけになり、教師としての生活の大半が消失して、生活のための生活が始まってみると、皮肉にも知的な時間を過ごすことも予想外にできるようになった。大学時代に購入して、それっきり二十年以上も本棚に放っておいた幾冊もの本を、かなりの程度読み上げ、そのうちの何冊かについては、あらためて丁寧に読んでみたい、読むべきだ、と思ったので、勉強机の上の、中学時代に技術という教科の実習で作成した、落書きや塗料の剥落の目立つ一番簡単な造りの本立てに並べ、毎日少しずつ読みなおすようになった。むろん洋書や日本の古典を読む場合には辞書を引き引きということになることが多いが、そのようにして読んでいる一冊がミルトンの『失楽園』で、父が若い頃に買って熱心に取り組んだらしく、あちこちにBかHBの鉛筆で線を引いてあったり、○や△、×が記してあったりする岩波文庫の二巻本の邦訳を一方に置いて、その訳が典拠にしているヒューズの編纂した、注釈付きのテキストを、ピリオドひとつ分だけ、毎日読むことにしている。この読み方は父が、京都の大学の文学部の学生のころに教わっていた先生の、授業でテキスト(アウグスティヌスの『告白』。ベル・レットレの羅仏対訳本を使っていたということだ)を読む際のやり方を参考にして始め、自分の習慣にしていたのを、いつの頃からか、わたしもまねをするようになったものだ。そういえば、わたしのこどもの頃、父は暇な日にはかならず、『アエネイス』のラテン語原文を、B5の紙に五、六行ずつプリント・アウトしたものを読んでいた。十九世紀の終わりにオックスフォードから出たラテン語辞典を引き引き、幾種類かの注釈書を見比べながら、訳をつけた後、詩の一行を六脚に分けて母音に長短の印をほどこし、アクセントを記入したものを、父は机に向かって音読するのである。何をしているのか聞き、ヴェルギリウスとアエネアスについて簡単な説明を聞いたことを覚えている。わたしが中学生の頃のことだっただろうか。当時、父は北陸の小さな国立大学で教えていたはずだ。冬の湿った雪が首筋に降り込んで、ぞくぞくっとする、そんな感覚が、大学に入って北陸を離れて暮らすようになって三十年程も経ったいまでも忘れがたい土地で、地中海を舞台とした叙事詩を、あきもせず読んでいた、地中海に似た天候の土地の出身である父の内面は、いったいどのようだったのだろうか。しょっちゅう叱られてばかりだったわたしにはとっつきにくい父であったし、自分のことばかりしか考えられない年齢でもあったので、当時は何の疑問も感じなかったのだが。
さて、『失楽園』のヒューズのテキストはマクミランから出ていたもので、大学四年生の時の夏休み、ガールフレンドに会うために東京に行ったときに(わたしも京都に下宿し、父とは異なり英文学を専攻していた)、新幹線の待ち時間を利用して訪ねた神田の古書店で、読まれた形跡がぜんぜんないものを見つけ出して買ったものだ。なぜ買ったのかというと、アダムとエヴァは初めエデン(楽園)で農耕に従事していて、エヴァがアダムの足手まといにならないために、仕事において独り立ちしたいと望んでアダムに請い、やっと許されて初めてひとりで野に出たところで、エデンに忍び込み、蛇のからだにもぐり込んだサタンに唆されて、禁断の木の実を食べることになった、という話を、三年生の時に受講した英文学史の講義のミルトンについての概説で聞いて、とても興味を感じていたからである。初めて恋愛らしきことを体験していたことが背後にあったのはいうまでもない。ともあれ、人間が始まりにおいて農業に従事していた、しかも夫婦で働いていたというのが、とても不思議で、創世記の簡単な物語を、なぜミルトンがそのように膨らませたのか、わけを知りたくて手に入れたのだが、その年の秋から冬にかけて卒業論文を書くことで手一杯になり、結局ほとんど読まないでしまった。
普通でない情況にある自分を、また自分の周囲の状況を、過去に遡っても、できるだけきちんと、淡々と記録するつもりで、いまわたしはパソコンのキーを叩き始めたのだが、「ガールフレンド」とモニターに現れたところで、何か切ない、甘酸っぱい気持になりもした。「情況」とも書いた以上、そのうちにその気持の原因を穿鑿して、語ってみるべきかもしれない。
いくさの始まる前は試験問題や書類を作成するために利用するばかりだったこの古いパソコンを取り出したのは、親しい生徒のひとりが訪ねてきて、一日に二時間でも一時間でもいいから授業をして欲しい、と要求したからだ。いくさが始まって二度目の春に高校二年生になって、欠席する学生が多くなり、間もなく休校にせざるをえなくなり、本来であればこの春、大学に入学するはずなのに、ずっと二年生のままということになってしまった学年のその学生は、自分や付き合いのある同級生たちの近況を話したあと、帰り際に、とりとめなく過ぎていく生活に核を作るためにも、
単なる情報交換の場になるだけでも構わないから、授業を再開して欲しい、同級生には自分が連絡するから、と懇願した。娘と同じ年代の若者の訴えでもあるだけに切実に感じられ、かなり積極的な気持で、考えてみよう、とわたしは応じた。学生は、ともかくどのくらいの連中が賛同するか問い合わせてみる、その結果は一週間後に知らせる、とうれしそうにいい、帰っていった。授業を再開するとして、通常の英語の授業ができるはずもなく、情報交換の場となってしまう可能性が高いのではないか。そこで取り上げる素材に当てるのもいいかもしれないと思い、いくさが始まって以来の生活を振り返り、記録してみようと思い立ったのだ。
いずれにせよ、まずはその学生の話を再話しておこう。それというのも、知らなかったことをいくつか教えられたおかげで、これまで不思議に思っていたことがいくらか了解でき、いくさの全体の輪郭を捉えるためのヒントを得ることができたような気がするからだ。
3
歳の離れた兄も姉もこの土地を離れていて、ともに病気がちの六十を過ぎた両親と三人で暮らしているので、外で食べ物を手に入れるのは主にぼくの仕事になっています。冬、寒さの厳しい間はもっぱら街をうろついて、どこからか、どのようにしてか、品物が手に入ったので開けた店に出くわすと(不思議なことに、そんな店がいつでだって何軒かみつかるんです)、時間がかかるのを承知で並んで、わずかばかり買ったり(たっぷり手に入るってことはまずありません)、買わないかと誰かから呼び止められると値段を交渉して、うまく条件が合えば買えたり、というふうに過ごしました。食べ物を手に入れるのは、たしかに大変ですが、ぼくのこれまでの経験では、家族三人が絶望しない程度には、なんとか手に入りはするのです。ただし好みを満たすことができるということはありません。だれかの体調が悪かったりすると、ちょっと困ります。この一月くらい、気候が変わりやすかったり、全然連絡を取れない状態の兄姉のことが心配だったりで、母の食欲のない状態が続いているので、何かうまいものを、母の好物を食べさせてあげたいと思って、いつもの年だったらそろそろせりが出ていてもいい頃だということに気づいて(母の大好物なのです)、摘みに出かけみることにしました。もっとも今年の気候だとまだ少し早いかなとは思いましたが。ちょうど一週間前のことです。
せりですか。せりは、うちではもっぱらおひたしにします。塩をひとつまみ入れてかるく茹で、黒胡椒と醤油と胡麻油と胡麻であえて、ご飯にのっける感じで食べるんです。ナムルっていうんでしょうか。こうやって食べるのが母の大好物で、いつもの倍くらい食べられるって、本当においしそうに食べながら、よくいうんですよ。いくさが始まる前は、露地ものが出るのを待ちきれずにどこからか買ってきて、今年の出来はどうだこうだといって、大喜びで食べていたものですが。いくさが始まると売り物は全然手に入らなくなってしまいました。せりばかりでなく嗜好品のたぐいが手に入ることは、まずありませんよね。手に入るのは、いわゆる生活のための必需品です。なんだか、だれかが背後で物の流通を完全にコントロールしているような気がしています。先生もそう思われますか。それで、去年の春に、母があんまり食べたがるものですから思い立って郊外を探してみたら、そこここに自生しているのが見つかって、おかげで思いがけず、久しぶりに楽しめたわけです。たしかに少しこぶりで、姿もなにか不揃いですけれども、味は八百屋で(特定の、玄人の料理人も使っているところでしか手に入らなかったんですが)買っていたものよりも香りが強くて、味にもせり特有の癖があって、むしろうまかったですよ。そうですか、先生のお母様もお好きだったのですか。お正月の雑煮には金沢産のせりを入れられたんですか。
で、去年も行った南川の上流を探してみることにしました。朝早くうちを出て、自転車で堤防沿いに進んで、せりの自生していそうなところをのぞいていきました。南川の本流だと山の方に向かってかなり行かないと、せりの生えるような場所はありません。堤防が傾斜のきついコンクリートで固められているし、水量もけっこう多いですから。でも、南川に流れ込む小川や溝の、浅いゆるやかな流れで、陽射しのあたりやすい、水のきれいなところにはせりが自生しています。この冬はずいぶん寒かったし、このところも寒さがぶり返し気味だったですから、予想通りなかなかみつかりませんでした。それでも、あまり風の吹かないような、日当たりのよさそうなところではいくらか摘めました。せっかく遠出をしてきたのだからもう少し、という気持ちで探し続けているうちに、いつの間にか山の近くに来ていました。南川が山に入り込む辺りには、ちょっとした湿原があちこちに点在していて、せりもそこここに見つかりました。自転車を川沿いの柳の木に、川沿いに山に分け入っていく国道の路肩の柳にチェーン錠でくくりつけておいて、けっこう熱中して、ぼくはせりを摘み始めました。
国道は川沿いに山に入って、トンネルを抜けて、隣町に通じているんですよね。でも、いくさが始まってすぐに、トンネルは向こう側から封鎖されてしまったということですね。以前耳にしたところでは、破壊ではなく、なにかこちら側からあけることができないような仕組みで塞がれてしまっているそうです。じっさい、自動車なんて全然通りませんでした。山のこちら側ではガソリンが手に入りませんので、もうほとんど車に乗らなくなってますし、もちろん向こう側からも来られなくなっていますから。でも、何のためにこの狭い地方が閉じこめられてしまったのでしょうか。ほかの地方は、いったいどうなっているんでしょうね。みんな不思議に思っているようで、よく話題にはなりますが、でもだれもきちんと説明することはできませんね。
さて、いるのはぼくひとりだと思って、辺りをちっとも気にしないで、せりを探していました。十分な量になったところで、ちょっと一休みしたくなって、腰を下ろすことができるような場所がないか、周囲を見まわしました。湿原を挟むように両側に細長くのびている田んぼの向こう側に小さな祠があって、その前で休めそうでしたので、あぜ道を辿って行きました。途中に柳やなにかの木がかたまって生えているところがありました。それまで気づかなかったのですが、ぼくと同じくらいの年齢の女の子(後でぼくより一つ下だということがわかりました)が、そこのかげで、やはりせりを摘んでいたのでした。細身のブルージーンズに大きめのざっくりとした編みの生成りの白いセーターを着ていました。むろん、ぜんぜん知らない女の子でしたが、同じようにせりを摘んでいたからか、なにかなつかしく、近しい感じがして、ぼくとしては滅多にないことなんですが、あまり恥ずかしい感じがせず、声をかけることができました。やあ、こんにちは、せりはどのくらい摘めましたか、とたずねると、その子は、先にぼくに気づいていたらしく、あまりあわてることもなく、四、五人で食べて一食分くらいかしらと、とても気さくに返事をしてくれました。ほっとしました。
ちょっとおしゃべりしませんか、と誘い、女の子も異存はなく、ぼくたちは祠の前の石段に、祠を背にして腰を下ろして、しばらく話をしました。おどろいたことに、その子はトンネルの向こうに住まいがあって、所用でこの土地に来なければならなくなった父親と一緒に、そして自分は、ちょうどぼくと同じように、食べ物を手に入れるために旧道を、峠を越えてやってきたというのでした。トンネルができるまで、五十年くらい前まで使われていた旧国道は、二十一世紀になってすぐの頃に全国的な規模で実施された「自然を回復せよ!」運動の一環としてアスファルト舗装が剥ぎ取られてしまった結果、現在は荒れ果てて、草や木が生い茂っていて、車で通るのはちょっと無理らしいですけれども、ところどころ歩きながらいうことであれば、タフな自転車やバイクなら、なんとかかんとか通ることができるのだそうです。むろん、トンネルを通れば十分ほどのところが、二時間くらいかかってしまうこともあるそうですが。そのようですから、トンネルが封鎖された後、どうしても必要がある人々は、旧道を通って行き来しているとのことでした。女の子は、昨年の秋に一度、山菜摘みに、やはり旧道を通ってこちら側に来たことがあるが、今度通ってみると、その時よりも道路が通り易くなっていた、といっていました。利用する人数が増えているのでしょうね。さて、待ち合わせの場所と時間を決めたうえで、父親は用を済ませるためにどこかへ行っているとのことでしたが、父親の職業が具体的になにで(山林で働いているということは間違いないのですが)、所用がどのようなものであるのか、行き先はどこか、その子は決して話そうとはしませんでした。その子の話しぶりは、だからといって決して拒絶的ではなく、むしろ話好きといった感じではあったのですが、触れようとしないいくつかの話題が、他にも確かにあったように思います。
さて、ぼくたちは話題のおもむくままに、お互いの住んでいる地域の状況について知っていることを伝えあいました。もっとも、ぼくがなにかについて質問して、その子が答え、ぼくの方からこの町のことについて話をするという形で、大体のところは終始しましたが。いずれの地域も全体としては、ほぼ同じ状況にあるようですね。ただ、トンネルが閉鎖されたのは、いくさが始まって間もないころ、こちら側から軍隊が攻め込んでくるといううわさが流れ、それに対処するために向こう側の、土地の土木会社と鉄工所とが共同で入り口をふさいでしまったのだそうです。これでもか、これでもか、という感じで、鉄板やコンクリートで、何重にも障壁が築かれたということでした。結局のところ、トンネルから攻め込まれるということはなかったわけで、向こう側ではトンネルを封鎖したことを評価しているようです。でも、その子の父親のように山で働く人たちは、こちら側がそれなりに平穏であることを知るようになり、あまり警戒することなく行き来するようになったのです。こちら側と違って、向こうの地形は北に向かって開放的で、県庁もあるT市に連なり、密接な関係があります。地域が広く人口も多い分、向こう側は物の流れもいくらか活発のようだし、地域内の人の行き来が多い分、情報も豊富なようではあります。それでも、交通機関が不通である点は、こちらと変わらないし、電波や電話の状態も似たり寄ったりのようです。だだ、いくさの始まった直後に、T市に戦車を中心とする軍隊が侵入して県庁と市役所を占拠し、知事や市長や議員、県庁や市役所の偉い役人たちを呼んで何事かを要求し、要求に従うことに意義を唱えた何人かの議員を拘束して、どこかに連れ去ったことがあったそうです。その時に軍隊に呼ばれて話を聞いた人々は、以後みんな無口になって、まさにもくもくと、なにかあるひとつの目的のために、とても従順に働くようになったらしいんです。そのような仕方で動いている人たちと、そのときにいったいどんなやり取りがあったのか、なんの事情も知らされない人たちとの間がはっきりと分かれて、交流が全くなくなっているようです。一般の人たちにとっては、徐々に、ほとんど自覚しないうちに生活が苦しくなっていき、気がつくと交通機関も完全に不通になっていて、情報も外の地域からは全然入ってこなくなっていたということのようです。ただし、軍隊がやって来るということがあったため向こう側ははじめひどく緊張し、その頃にトンネルをふさぐようなこともおこったということです。
だいたいこのようなことを聞き、この町の現状についてもある程度話したところで、女の子が父親と約束した時間が近づいてきて、ぼくたちは別れました。ちょっとはにかんだような笑顔で、さようなら、というと、その子は木かげに置いてあったマウンテンバイクに乗って、国道を山の方に上って行きました。そういえば、父親とどこで待ち合わせているのか、教えられませんでした。お互い名前は教えあいましたが、電話番号は聞きませんでした。外部の人たちと電話のやりとりをする習慣は全然なくなっていますので、思いつきもしませんでした。一人になって、ぼくはせり摘みを再開し、ほどなくして、母を喜ばせるのに十分なだけせりを集めることができましたので、家に戻りました。ええ、おかげさまで母は大喜びで、その日の夕食は、それまでが嘘のような食欲でした。
4
さて、学生の話でわたしの気になったのは、彼が女子学生から聞いたという向こう側の町の様子が、こちら側とおおむね同じようでありながら、はっきりと異なる点があったこと。つまり軍隊が戦車を伴って進駐し、強引なやり方で地域をコントロールしようとしたこと(あるいは、現にしていること)。どうしてこちら側には、いくさが始まった頃に一度だけ爆撃機こそ飛来して、港を徹底的に破壊しはしたけれども、いまに至るまで軍隊はやってこないでいるのか。なぜ何か膠着したような不思議な静けさのなかに、この地方は放っておかれているのか、ということ。この地方が特別だとしたら、なぜ特別なのか。特別である理由をどこに求めることができるのか、ということ。
それにしても、また聞きのまた聞きであるのに、学生から、戦車を中心とする軍隊がやって来たという女子学生の話しを聞いたときに、ひどく濃い黒緑色一色に塗られた戦車(じっさいには迷彩色だったのかもしれないのだが)の列が陽光に鈍く輝きながら、城下町の名残を数多く残す狭い街路を、軒の低いその両側の家並みを、まるで睥睨するように、うんざりするくらいゆっくりと進行するさまが鮮やかに脳裡に浮かび上がってきて、おなかが気持ち悪くなってしまったのには、自分でも驚いている。まぶたに浮ぶ映像は鮮やかであったのに、音はなかった。キャタピラが、その街路を名高くしている灰褐色の御影石の石畳の上できしみつつ、あげていたに違いない鼓膜を圧し叩くような轟音は、少しも聞こえなかった。それがかえって、わたしの胃の奥を幾度も不安定に揺さぶり、嘔吐感を感じさえもしたのだった。
いくさ。戦争。どうにもやり切れない、勝者にも深い悲しみ、深い傷を残すできごとであるに、途方もない過去から人間のものであってきた。いや、このところ読み続けているミルトンの『失楽園』によると、人間の創造に先立って、すでにして創造主である神とある天使たちの間に生じたもの。かくて、神に背いた天使たちは当然のこととして敗北し、悪魔となって地獄に堕ちたというのだ。(なぜ、天使は神に刃向かったのだろうか。)しかしわたしにとっては、このいくさが始まるまでは、物語や小説、ルポルタージュ、映画やテレビで経験するばかりであったもの。例えば、祖父母の世代の若い頃にあった太平洋戦争については、父の本棚で見つけて読んだ『レイテ戦記』(中公文庫版だったと思う)をはじめとする大岡昇平の一連の小説や、これも同じ本棚の一角に並んでいた数冊のシベリア抑留記(長谷川四郎や高杉一郎によるもの)などがイメージの源泉。一方で、ある場合は子供向けに書き直されたもので読み、ある場合には高校や大学の、国語や英語の授業で原典や現代語訳で、むろんさわりを読んだ保元物語、平治物語、平家物語や太平記などの軍記物が、またはじめはやはり子供のころに再話されたもので読み、後に岩波文庫の松平千秋訳で、ついで古い岩波文庫の呉茂一訳を見つけて、その言い回しの魅力に取りつかれて読み、さらにはこれも父が北陸の古本屋で見つけて買ったものであるらしい石版刷りの挿絵が楽しみでもあった土井晩翠訳(冨山房という出版社からのもの、買った日らしい日付が薄い鉛筆で父らしいきちょうめんな字で表紙の裏に書いてあった)で読み、こうして何度か読みなおしたホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』が、大学に入って最初に帰省した夏休みに本棚で見つけて、父が読んでいた記憶がよみがえって気になり、手にとったウェルギリウスの『アエネイス』(岩波文庫の、各行に必ず一箇所句切れを入れて、ラテン語原文の韻文としてのリズムを少しでも日本語に移そうと努力しているのに感動した泉井久之助訳)が、いくさの何であるか、またいくさのもたらす深い悲しみ、深い慟哭を教えてくれた。それらは、もちろん一方で華やかな武勲を語りはしているし、そちらの部分の方がよく知られていて確かに面白くもあるが、他方では、いくさの背後にはかならず悲哀が、死者の父親や母親、妻子、恋人の悲嘆が、また、殺害される必要の全然ない者を殺害してしまう残虐が存在することを、きっと語ろうとしていたし、実のところ、そこにいつだって深くこころが動かされもするのだ。(こんなふうに書いていると、保元物語の、たとえば鎮西八郎為朝の活躍といくさの後の船岡山での為義の幼児たちの殺害を、わたしは思い浮かべてしまう。)それでも、嘔吐感を感じたことはこれまでなかったこと。なぜだろうか。最低限の平穏は保たれているものの、やはりこの地方も平時とは程遠い状態にあり、それがわたしの神経を鋭敏にしているのだろうか。向こう側の町のできごとを耳にして身体的にリアリティーを感じたということなのだろうか。それとも、この町にもいつか戦車が侵入して来るかもしれないという激しい恐怖感が、嘔吐感という形を取って現れたのだろうか。
さて先に、この町は特別なのかもしれないと考えたところで(結局、別な方向に話題が向いてしまったが)、わたしは何となくS家のことを思い出した。いくさが始まって以来、いくさとの関わりでS家のことを思い出すことなどまったくなかったのに。
S家の当主は六十代半ば、同じく国会議員であった父親の秘書を務めた後、父親が引退した時に、代って立候補し当選(もちろん、この地方を選挙区として)。国会議員を何期か務め、若い頃から保守的な言動の目立った人で、このいくさが始まる二年ほど前まで国防相だった。国防相に就任して最初の、制服組を前にしての訓示がテレビ・ニュースで放映されたのをたまたま見たが、その時、S氏は真新しい、したがって角張った印象の制服を着、昂揚していたからかこわばった表情、こわばった姿勢をしてかん高い声で、国を守る気構えの重要性を説いていたものだった。いかにも名家の生れといった色白の端正な真面目そうな顔立ちであるのに、口許ばかりにうっすらと傲岸な性格の気配が感じとられもしたのを、よく覚えている。このS氏の国防相在任中に国の軍備をめぐって与党と野党の間で激しい論争があり、軍備の縮小を主張する野党に反対してS氏は、テレビの政治討論番組に頻繁に登場して、制服組の士気を重視する立場から、士気を削ぎかねないものとして、軍縮に断固として反対意見を述べもした。S氏が国防相を辞めたのは、それまでの与党が、希に見る激しい選挙で野党に大敗を喫して政権を失ったから。軍備の大幅な縮小を最重要の公約にしていたこともあって、新しい与党は公約の実行に積極的に取り組み、初年度に軍備のための予算を二十パーセント余りも削り、軍人の採用を見送り、退役を奨励した。二年目にも同様の政策を推進しようとしたが、危機感を強めた制服組がその年の暮れにひそかに動いて、政権に対して軍事的圧力をかけて瞬時に屈伏させ、時の野党の、とりわけ保守的な一部の勢力と組んで「新しい政府」を誕生させ、軍政を行ない始めた。が、それまでの政権の一部(その中心にはS氏の後任の国防相がいた)、いわば「古い政府」は地下に潜り、軍縮に理念的に賛同していた軍の少数派である、多数派が取った反政府的な行動に疑問を感じていた勢力と結んで抵抗を試みた。多数派の方が、優勢な武力を最小限しか行使しなかったこともあって、大がかりな武力衝突は回避され、最初から多数派が圧倒的に有利な状況にありはしたが、少数派も市民たちの支持を背景に首都圏を中心とする大都市圏に、徐々に解放区のような地域を増やしていき、次第に軍事的均衡を確立していった。一方で、メディアや通信体系、交通網、物流などの面で、双方が激しい主導権争いを繰り返した結果、それらのある部分が不全になり、ある部分がいずれかの勢力の完全な支配下に置かれるようになった。かくして、いまのこの状況が訪れたのだ。すると、新しい政府の中心にS氏がいるかもしれないし、それならば、この地方が新しい政府によって何らかの重要な性格を与えられて、特別な状態に保たれるということもありうるのかもしれない。