戦記

—父と母に—

 

松崎一平 

 

 こうして、現在の状況とS氏の関係に思い至ると、わたしは少し前に読み返したジョン・ミルトンの『失楽園』第一巻の、サタンの演説を思い出した。地獄の闇の中ではあるが、きらびやかな甲冑を身にまとい、ある者は軍旗を、ある者は喇叭や竪笛や横笛を手にし、また武器を携えて、サタンを半円状取り囲む形で勢揃いした悪魔の軍団を前にして、まず口火を切ったサタンの演説。それまで軍団の行進と共に低く鳴り響いていた音楽がぴたりと止み、限りなき静謐が訪れた後のサタンの演説。焦土に整然と立ちつくす同輩に向けて語りかける誇り高いサタンの演説。

 むろん『失楽園』の主題とするところはアダムとイブの原罪であるが、その主題に密接に繋がる、天使たちの一部が堕ちて悪魔となる原因となった天国での戦いについて、できごとの起こった順番に直接物語っていくということはしないで、古代の叙事詩の語り方の常にならい、神と神に与した天使たちとの天国での戦いに敗れて地獄に堕ちた(落下するのに九日九夜を要したという)悪しき天使たちが、つまりはもはや悪魔たちが、落ちた衝撃から徐々に立ち直り、活動し始めるところから、要するにできごとの中途から始まる。活動を再開し始めるのは地位の高い、したがって能力の高い天使から、首領のサタン、その腹心のベルゼバブといった順。

 ところで、『失楽園』を読むようになって知ったことだが、悪魔も、もとは天使であり、この戦いで神に従ったか神に背いたかで、善き天使(天使)と悪しき天使(悪魔)とに分かれたのだという。天使は、人間や他の被造と同じく、ただしそれらに先立って神によって創造されたもの。ということは、創世記の第一章に語られている神の六日にわたった創造の第一日目に、神の「フィアット・ルクス」、すなわち、「光あれ」ということばによってあらしめられた光に先行して創られたものということだ。したがって天使の創造は、創世記の記述からは省かれているわけだ。もっとも、子どもの頃、何かのおりに父から、アウグスティヌスが『告白』で語っている解釈では、創世記冒頭の「はじめに神は天と地とを創った」という文の「天」は、じつは天使を意味していて、ここに天使の創造が示唆されているのだと、天使は男性だということと共に教えられ、何か不思議な気がしたことを覚えてもいる。いずれにせよ、ミルトンの世界でも、天使はあたかも人間のように描かれてはいるけれども、紛れもなく神と共に霊的な存在でもあり、物質が負わなければならない死すべき性を超越しており、よって時間を超越して、永遠に存在するべきもの。堕ちた天使である悪魔も、その点では少しも変わりはない。だから、九日九夜にわたって落下し続けて、地獄の地面にしたたか打ちつけられたはずにも拘わらず、死ぬことはなかった。死ぬことはないという事実(悪魔が神への復讐を決意するときに大きな意味をもつだろう)は、だが敗者である悪魔にとっては敗者として存在し続けなければならないことにほかならず、決して喜ばしいことではないのだ(この点は、『失楽園』第二巻の悪魔たちの会議での議論で重要な意味をもつ)。だから、いずれにせよ、サタンの前に勢揃いしたのは、神に刃向かっていった天使の軍団とぴったり同じ数だったはず。眼に見える光景としてはすこぶるにぎやかだったはず。だが、それも、青白い業火が燃えているにもかかわらず漆黒であるという地獄の闇の中のことだ。わたしが思い出したのは、その時のサタンの演説。神に対して戦いをもう一度挑もうと唆すサタンの演説だ。

 ミルトンによると、サタンは、焦土に等しい地獄の平原に、敗残の身であるにもかかわらず、いわばけなげに整列する、自分に従う道を選んだために敗北を喫した同輩たちの様を眼前にして、話そうと三度試み、三度とも涙でことばを詰まらせ、四度目にようやく、ため息まじりではあったが、ことばを紡ぐことができたという。

 『失楽園』第一巻の六百二十二行目から六百六十二行目までのその演説の大意は、わたしの理解したところではこうだ。

 

 自分たちは無敵だ、ただ神(全能者)を除くと。これほど一致団結した無敵の軍団をもって戦えば敗退を知るはずはなかった。勝てると判断して戦いを挑んだことは、自分たちの力量からすると決して過ちだったわけではないのだ。なにしろ、神があれほど強力な武器(すわなち、雷霆、ギリシアの主神ゼウスの武器でもあり、『失楽園』は主題を聖書の創世記に取りながら、濃厚に、古代ギリシアに始まるホメロス以来の叙事詩の伝統の中にあるということだ)を隠しもっていたことは知るよしもなかったのだから、始末は確かに惨めなものであったが、このたびの敗北は決して不名誉なものではあるまい。しかも、自分は指揮官として指揮をしくじったわけでもないし、戦いで怯えたわけでもないのだから。自分たちはこれほど強力な軍勢なのだから、加えて、かつて承知していなかった神の武器のことも知ったのだから、再度戦いを挑み、本来の座を回復することも可能ではないのか。その場合、力によるのではなく、詐術や陰謀によって密やかに行うのが良いだろう。こうして、力によって制圧する者は、敵の半ばを制圧したに過ぎないことを神は思い知るべきだ。

 

演説の最後の部分は、わたしがワープロで打ち込んだ訳ではこうなっている。

 

 「…だがこうした考えは

十分な協議によって熟させる必要がある。平和の希望は絶たれている。

じっさいだれが服従を考えることができるというのか。それなら戦い、

公然たると奇襲とを問わず、戦いが決意されなければならない。」

 

 サタンが考えているのは、自分たちが神に戦いを挑んだ時にはまだ創造されていず、いずれ神が創造するだろうと噂されていた、間違いなく天使たちと同じほどにも神の気遣いの対象になると推測される新たなる種族(人間)が、すでに創造されているかもしれず、もしそうであるならば、その種族を密やかに攻撃の対象にすること。つまりは、創世記第三章で物語られているエデンの園のできごとを引き起こすことだ。むろん、サタンも言っているように、それは地獄の同輩たちとの協議の果てに決められるべきこと。じっさい、その協議は、『失楽園』の第二巻に語られていて、サタンの思わくどおりに終始することのなるのだが、そうすると、きらびやかな「パンデモニアム」(「パンテオン」、すなわち、古代ローマ帝国の各地で崇められていた数多くの神々をローマの都に招来して祀った「万神殿」をもじったことばで、平井正穂訳では「万魔殿」と訳されている)、地獄に埋蔵されている豊かな鉱物をふんだんに利用して、黄金に常軌を逸して執着する悪魔マンモンの指揮のもと、悪魔たちの手で建設された、いわば議事堂で行われた会議は、サタンの深謀遠慮に沿って、サタンの読み通りに、筋書きに通りに推移したものに過ぎなかったことになる。

 さて、世界と人間の創造に先立つ戦い(戦いの始めだ、世界は戦いで始まったのだ!)において、サタンとその配下の悪魔たちは最後的に、神の圧倒的な力によってねじ伏せられた。武力によってしては決して神を破ることができないことを、彼らは戦いを挑んでみて、したたか思い知らされたのだ。わたしが思い出したサタンの演説は、そこのところを話の出発点にしている。ある意味では戦いを挑む前から予め定まっていた敗北を受け入れて、勝利者である神に服従すべきなのか。この道を進むことは、地獄という天国の対極に落とされたことを逆手にとって、地獄に閉じこもり地獄をわが領域とし、支配者としてそこを経綸することにもつながるだろう。だが、サタンはこの道をとることを望んでいないかのようだ。一方、力でもって正面から再び挑むという道を選ぼうともしない。たぶん、サタンの怜悧な知力をもってすれば、自分たちが重ねて敗れざるをえないことが容易に察知できたのだ。彼が望むのは、武力による力比べではなく、策略によって勝利者に一泡吹かせ、その圧倒的な勝利に何らか水を差し、溜飲を下げること。この辺の気持ちに関わる、六百四十五行目から五十九行目までのサタンのことばは、わたしの訳ではこうだ。

 

 「…力が果たせなかったことを、

詐術や陰謀によって、密やかに行うことが

わたしたちのよりよき役割として残っている。それは神もついには同様に、

力によって征服する者は、敵の半ばを征服したに過ぎないことを、

私たちによって、思い知るためなのだ。」

 

 力による敗北は決して敗者の内面における敗北を来さないこと、このことを勝者である神に思い知らせたいということ、思い知らせずにはいられないということ。よって、たとえ敗北は必至でも、再度戦いを仕掛けたい。これが、サタンの演説の示すところだろう。が、全知全能の神に敗者の心底を思い知らせたく思うこと、これこそ傲慢の極みというもの。神を力で圧倒し、自らを神の上に置きたいという、神に対する傲慢の気持ちが神への反逆の動機であったのなら、敗れたサタンは傲慢である点において一歩も後退してはいないわけだ。それにしてもいったい、なぜサタンは神に戦いを挑んだのか。どうして、敗れてもなお再び戦いを挑もうとするのか。この執拗な傲慢はいったい、何に由来するものか。『失楽園』を少しずつ読み進めながら、ずっとわたしの気になっているのが、このような疑問だ。

 ところで、S家の当主の在りし日の姿を思い出し、その姿に、毎日読み進めているミルトンの『失楽園』の第一巻のサタンの演説を思い出したのは、この疑問への一つの答えが見つかるのではないかと思い、第一巻を何度も読み直していたからだ。『失楽園』第一巻の、上に述べたサタンの演説を読む時、いつもわたしは、いつかテレビ・ニュースで目にしたS氏の姿を思い出してしまうのだ。だが、いま行われているらしいいくさは、むろん、人間、つまり死すべき者同士の戦いで、どちらが勝利するかは不明であり、勝利の帰するところが始めから自明である、『失楽園』の物語る戦いとは本質的に違ってはいる。言うまでもないことだが、『失楽園』の物語る戦いは、戦死をもたらすことはなかった。そのような違いには敢えて目をつぶるにしても、サタンはあくまでも敗者であり、S氏は目下のところ優勢な情勢にあることが確実な「新しい政府」の勢力に主要なメンバーとして荷担している可能性の極めて高い人物で、決して敗者ではない。いや、ひょっとしたら、S氏は紛れもなく死すべき人間であるが、その気分において何らか死を乗り越えていて、わたしの眼に焼き付いているあの演説の姿が、濃厚にその気分を漂わせていたということかもしれない。