三八六年八月、ミラノのある部屋
‐アウグスティヌス『告白』第八巻第六章‐
松崎一平
三八六年の八月のある日。西ローマ帝国の都ミラノ(メディオラヌム)。
アウグスティヌスとその家族(母親モニカと息子のアデオダトゥスはいたが、アデオダトゥスの母親は既に離別してアフリカに帰郷していた。他に家族のだれがいたかは不明)と共に、アウグスティヌスの無二の親友であるアリピウスとネブリディウスも宿所として暮らしている家の一部屋。部屋は小さな庭に面しており、庭にはイチジクの木が植わっていた。庭は塀を隔ててか、あるいは隣家の壁を境に、隣家に接していたようだ。
アウグスティヌス、アリピウスは、用があってたまたま訪ねてきた客のポンティキアヌスと一緒にその部屋に座って、三人で話していた。ネブリディウスは不在。たぶん、モニカは別な部屋にいた(第八巻第一二章)。三人の前には、ゲームを楽しむための机が置かれていた。部屋はおそらく応接室の役割を担っていたが、アウグスティヌスが読書のために使ってもいたようだ。ゲームを楽しむための机の上には、従って読み止しの本、たぶん羊皮紙の写本の一巻が置かれていた(住人たちはゲームの誘惑をすっかり克服していたのだ)。ポンティキアヌスの訪問を予期していなかったので、しまう暇がなかったのだろうか。
ポンティキアヌスは、アフリカの出身(それ以外は未詳)。同じくアフリカのヌミディア州タガステの出身であるアリピウス、アウグスティヌスと同郷の、ミラノの宮廷で高い地位を占める官吏であった(年齢はわからないが、三十三歳のアウグスティヌスや、アウグスティヌスよりやや若かったと考えられるアリピウスよりはいくらか年長だったのではないか)。しかも熱心なキリスト教徒。一方、アウグスティヌスも宮廷からの費用で営まれていたミラノの修辞学校の教授職にあり、それは機会に恵まれれば高級官吏や属州の知事になれるかもしれない地位でもあった。アウグスティヌスはこの頃までに、キリスト教の神を真の神と理解し、キリスト教の教義が正しいと考えるようになってはいたが、独身生活を勧め、世俗の名利や富を放棄するよう戒めるその教えを実行に移す決心がつかず、深い葛藤の中にあった。ポンティキアヌスは、この葛藤を、いわば融和的に克服することができた人物だった。
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さて、ポンティキアヌスは、机の上にあった写本を手にとって開き、それがパウロ書簡だと知り、驚く。ポンティキアヌスは、修辞学教授であるアウグスティヌスの読む書物であるからには、修辞学に関わるものだと思い込んでいた。パウロ書簡とはまったく予期していなかったのだ。キケロやワッロ、あるいはクイントリアヌスの著作を想像していたのだろうか。熱心なキリスト教徒であった彼は、パウロ書簡を、そしてパウロ書簡だけを眼前に見いだしたために、むろん、アウグスティヌスたちを祝福した。その部屋にはパウロ書簡しか置かれていなかったのか、あるいは他の写本もひょっとしたらどこかに置かれていたが、それらは最近読まれた形跡はまったくなかったということだ。つまり、最近のアウグスティヌスはその部屋でパウロ書簡を読むことに専念していたということ。アウグスティヌス自身がポンティキアヌスにそううち明けもしたが、彼が、アウグスティヌスのことばどおりにその内的状況を信じ、その後、三人の話が弾んだのは、部屋の雰囲気がアウグスティヌスの内的状況を裏づけるものだったことにもよるだろう。人の内面は、人の住まいや生活あるいは行いに反映するものだ。
加えて、ポンティキアヌスの人となり。しばしば教会で跪いて、繰り返し長い時間、神に祈りをささげているのを、アウグスティヌスは目にしていた。つまり、ポンティキアヌスの信仰心の深さは、日頃の行いとして現れていて、アウグスティヌスはそれを見知っており、よってポンティキアヌスを信頼し、こころを許すことができた。従って、ポンティキアヌスを書斎を兼ねた(応接用の)その部屋に迎え入れるとき、修辞学者の部屋に装う必要を感じなかったのだろう。アウグスティヌスは、人の行いを見て、その人を信頼するたちだったのだ。
例えば、アンブロシウス。アウグスティヌスは教会でミラノの司教アンブロシウスの日常に目を凝らし、アンブロシウスが信頼するに足る司教であることをその行いから確信するようになり、しかる後に、アンブロシウスと面談することを熱望した(第六巻第四章)。あるいは、シンプリキアヌス。アウグスティヌスがシンプリキアヌスに会おうと決意したのは、ミラノのカトリック教会でアンブロシウスのもとで司祭を務めるシンプリキアヌスが神の僕として良くその務めを果たしているのを目にしていたからであり、また、彼が青年時代から極めて熱心にキリスト教の信仰に生きてきたと伝え聞いていたのを、それによって確信するにいたったからである(第八巻第一章)。人の内面は、人の住まいや生活あるいは行いに反映するものだ。アウグスティヌスは、たぶん経験から、そう考えていた。
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話は弾み、ポンティキアヌスの口からエジプトの隠修士アントニウスの話が出る。二五一年頃に生まれ三五六年(アウグスティヌスは三五四年の生まれ)に死んだアントニウスは、長年、砂漠で独住して、孤独に耐え、様々な誘惑に耐え、ひたすら神に祈る生活を続けた。アントニウスの生涯は、その死後直ちに(三五七年頃)、アレクサンドリアの司教アタナシウス(二九六年頃‐三七三年)によって『アントニウスの生涯』としてギリシア語で記され、三七○年頃までには複数のラテン語訳も現れ、キリスト教徒の間で広く知られるようになっていたし、アントニウスに倣った生活に入る信者たちも相当数生まれていた。ミラノの市街を限っている城壁の外にも、アンブロシウスの援助の下、そのような修道生活を送る信者たちの集団がいた。ポンティキアヌスは、パウロ書簡に熱中しているアウグスティヌスとアリピウスなら当然知っていると考えてアントニウスに言及した。ところが、彼らはアントニウスの名前さえ、まったく知らなかった。二人がアントニウスを知らなかったことにポンティキアヌスは驚き、二人はアントニウスの偉大な事績に驚いた。三人はお互いに驚きつつ、話を続けた。
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三八六年八月、ミラノのとある部屋で話に熱中している三人の話題はパウロ書簡に始まり、こうして、エジプトの砂漠に飛び、ミラノ郊外の修道院に飛んだ。ついでポンティキアヌスは、西ローマ帝国の北部地域の首府トリアー(トレヴェス)で、かつて自分が半ば当事者として経験した出来事に話を移す。
ある午前(注)、皇帝が円形闘技場の見世物を見物していたとき、彼は同僚の三人と城壁近くの庭を散歩していたという(四人は闘技場の見世物の誘惑を克服していたのだろう)。古代のトリアーを示す図(E・J・オーウェンズ、松原國師訳『古代ギリシア・ローマの都市』国文社、一九九二年刊)を見ると、南北に流れるモーゼル川の東岸に築かれた都市の、河岸と反対側の城壁に取り込まれるように円形闘技場が築かれていた。四人は二人ずつ二組に分かれ、別々に散歩した。ポンティキアヌスとは別の二人組は散策の途中で、とある庵に入り込む。そこには修道士(隠遁者)たちが住んでおり、アントニウスの生涯を記した写本もあった。二人組が修道士たちと顔を合わせたのか、会話を交わしたのかはわからないが、とにかく二人はその写本を読み、アントニウスの生き方、庵に住む修道士たちの生き方に倣いたいと熱望し、高位を望みうるが、失脚する危険がはるかに大きい官位を直ちに棄てて修道士たちの仲間に入る決意をしたのだった。庵には倣うべき生活のかたちがあったのだ。日も傾いた頃、二人が大きな決断をしたところにやって来たポンティキアヌスの二人連れは、他の二人の決断は受け入れたものの、その決断を共有することはできず、二人を祝福して、自分たちのために祈ってくれるように頼み、二人を庵に残し、嘆き悲しみながら宮廷に戻ったという。更に、世を放棄した二人の許婚も、後に二人に倣って世を捨てたという。二人とも、それぞれの許婚に対して内面的にも行いの点でも誠実だったがゆえに、彼女たちも二人に倣ったと考えるべきだろう。
周知のように、アウグスティヌスとアリピウスは、このようなポンティキアヌスの話を聞いて、自分たちもその二人に倣いたいと願い、激しい葛藤を乗り越え、ついに回心のときを迎える。話をしてくれたポンティキアヌスに倣いたいと思ったのではない。彼が話してくれた二人に倣いたいと思ったのである。アウグスティヌスとアリピウスは、ポンティキアヌスを追い越して、先に進んでしまった。じっさい、第八巻第八章以降、ポンティキアヌスは全然、登場しない(話を終え、用件が済むと立ち去った、と第七章の終わり近くにある)。ポンティキアヌスは置き去りにされてしまった。つまりは、宮仕えを続けつつ熱心なキリスト教徒として生きる道は、まったく顧慮されずに放棄されたのだ。
しかし、ここで忘れてはならないのは、ポンティキアヌスの話はアウグスティヌスとアリピウスによって、真実として完全に信頼されていたということ。すなわち、ポンティキアヌスが完全に信頼されていたということ。彼の日々の行いがその信頼の一つの根拠であったらしいこと。トリアーの二人組の決断(遁世)が、アウグスティヌスとアリピウスにとって説得的だったのは、ポンティキアヌスへの信頼が深かったから。そう考えて良い。人の内面は、人の住まいや生活あるいは行いに反映するものなのだ。
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そして、ミラノの部屋での三人の話の広がり。三人は北アフリカ(現在のチュニジアとアルジェリア)の出身。ローマ帝国の南辺であるエジプトの砂漠から、北辺はトリアーの庭園まで。それはキリスト教の修道的生の広がりでもある。話柄の真実性を保障しているのは、だれが話しているのかということ。つまり、その人の行い。
ミラノの部屋にはゲームを楽しむための机が据えてあった。机上には一巻の写本(パウロ書簡)。そして傍にはつましい庭。少し後、アウグスティヌスとアリピウスは二人ともそこで回心する。見世物(ゲーム)が催されていた、トリアーの円形競技場の近くの庭園。その中の庵で、ポンティキアヌスの二人の同僚は回心した。そこにも一巻の写本(『アントニウスの生涯』)。広がりの中に見いだされるミラノとトリアーの、人とものの配置の見事な呼応(この点は、Carl, G. Vaught, Encounters
with God in Augustine’s Confessions, Books
VII-IV, 2004に教えられた)。『告白』の著者にとって、たぶんそれは神の恵みの現れだった。おもしろいのは、ミラノの部屋。トリアーの庭園における庵の役割を果たすも、回心の直前、アウグスティヌスはそこから庭に出る。そして、そこで回心。部屋はアウグスティヌスの内面(回心に収斂する葛藤)の現れだったからには、いったん否まれなければならなかったのか。
(注)写本では promeridiano とあるとのこと、pro- が prae であることからすると、これは「午前」(「朝」ではない!)と訳すべきであろう。しかし、一七世紀の活字本でpomeridiano とされ、po- が post から来ているために、これは「午後」と訳される。したがって『告白』の近代語訳では長い間、「午後」と訳されてきた。わたしの手元にある七種の日本語訳も「昼すぎ」とする一例(渡辺訳)を除き、すべて「午後」とする。活字本がpomeridiano としたのは、たぶん、promeridiano の用例が他になかったからだろう。ルイス・ショートのラテン語辞典にもブレーズのキリスト教著作家羅仏辞典にも promeridiano は載っていない。一九三四年刊のトイブナー版の校訂本から
promeridiano という読みが採用されたが、それでも長い間、「午後」と訳されてきた。デクレ版の羅仏対訳本でも、ラテン語で promeridiano とあるのに、仏訳は「午後」となっている。どうしたことだろうか。一九九一年刊のチャドウィックの英訳が、たぶん初めて「午前」と訳し、一九九七年刊行のボールディングによる英訳も「午前」と訳す。一九九八年刊のプレイヤード版全集の仏訳は「午後」のまま。「午前」だと、二人が決断に要した時間は相対的に長くなる。「午後」だと、決断はより劇的になるか。円形闘技場の見世物は午前から開催されることもあったようだが、四世紀のトリアーではどうだったか。こちらの方から考察する手もあるかもしれない。以上、報告である。
(二○○五年一月一四日)