宣長の変貌

                  千葉 真也

 

そこで天照大御神がおっしゃった。「また、どの神を遣わせば良いだろう。」それに対して思金神(オモヒカネノカミ)と諸々の神とが次のように申し上げた。「天の安河(ヤスノカハ)の河上の、天の石屋(イハヤ)にいらっしゃる、名は()()之尾羽(ノヲハ)張神(バリノカミ)を、遣わされるのが良いでしょう。もしまたこの神でなければ、その神のみ子である建御雷之男神(タケミカヅチノヲノカミ)を遣わされるのが良いでしょう。その天尾羽張神(アメノヲハバリノカミ)は天の安河の水を逆さまに塞き上げて、道を塞いで居るので、他の神は、行けますまい。とくに天迦久神(アメノカクノカミ)を遣わして問われるべきでしょう」そこで天迦久神を遣わして、天尾羽張神に問うと、「恐れ多いことです、お仕えいたしましょう。しかしながら私の子の(タケ)御雷神(ミカヅチノカミ)を遣わすのがよろしうございましょう」と申し上げて、建御雷神を天照大御神に貢進した。それで、天鳥船神(アメノトリフネノカミ)を建御雷神に副えて地上に遣わした。(『古事記』上巻)

 

 伊都之尾羽張(天尾羽張)は、『古事記』の中では他に一箇所だけ登場する。伊邪那岐が迦具土を斬り殺した、その刀の名としてである。建御雷はその際に飛び散った血から生まれた神であり、それで伊都之尾羽張の子ということになる。

 伊都之尾羽張神が「天の安河の河上の天の石屋」にあって「天の安河の水を逆さまに塞き上げて」いることについて、『古事記伝』は次のように言う。

 

さて世に物に水をたゝへ、( ノ)中に()(オキ)て、刀剣をとぐは、此神の如此(カク)河水を塞湛(セキタタヘ)て、石室(イハヤ)に坐るに()れり、(『古事記伝』14巻 全集第10巻92頁)

さて、世の中で、容器に水を入れ、その中に砥石を置いて刀剣を砥ぐのは、この神がこのように川の水をせき止めて石室におられたことによっている。

 

近年の注釈がこの箇所についてどのような説明をしているか、充分に確認したわけではないのだが、特に触れていないものも少なくない。もっとも『古事記伝』という本が『古事記』の一切の語句について遺漏無く注を施そうとして、冗漫になる事をもあえて厭わなかったのに対して、多くの注釈書は分量の制約が厳しい叢書の一部であるから『古事記伝』に何かの説明があるのに新しい注釈は何も言っていない場合も多い。頭注の方針の第一に「記伝の説を検討して是非を明らかに」することを掲げた、日本古典文学大系『古事記 祝詞』は、宣長のとは異なる説を立てている。「この水は刀剣を焠(にら)ぐのに関係があると思われる」というものであるが、あまりに簡潔で、これだけでは判断もできない。にらぐ(焼きを入れる)ことと、刀を砥ぐのに砥石と水を使うのと、同じ程度に成り立ちうる説であるとしか言いようがないが、「石屋」の説明がつく分だけ古い宣長の説の方が、むしろ優るのではないかと思われる。

 もっとも今の私には、そのこと自体は実はどうでもよい。水中に砥石を入れて刀剣を砥ぐのが「この神がこのように川の水をせき止めて石室におられたことに由っている」と宣長が述べていることが、ここでの問題である。『古事記伝』には時々このような箇所がある。

 

                                               

 

『古事記伝』という巨大な注釈書は一面では思想の書でもあるが、基本的には、最初から最後まで、急ぐことも無く、省略することも考えずに作られた訓詁注釈の集積である。宣長の訓詁注釈作業そのものに、子安宣邦などは「儒教的含意」の「強い排除の意志」を認めているが、子安の議論は詐術というべきものを含むと私は考えている。議論の先を急ぎたいので、この点については付記にまわすことにする。『古事記伝』は巨大な注釈書である。思想的な内容を期待して読んでみると実はあまりそれらしい所がない本である。ただし、時々宣長は理解しにくいことを言う。豊富な用例による訓詁は、文体を口語に直すだけで、現代の注釈書のしかるべき箇所にはめ込むことができる。その一方で、先のような箇所もある。

 ある神が天安河の河上の石屋に在って水を塞き上げていたのが今の砥石の由来であるというのは、しかし起源の置き所を入れ換えれば、われわれには分り易いものになる。水中で砥石を使うのをもとにしてこの箇所の記述ができたと、今の我々が聞いても怪しまない。そして宣長自身も、ある時期には次のような記述を行っているのである。

      

石室ニ坐ト云ヒ、水ヲ塞上テト云ルハ、刀ノ水中ノ砥ニアル象ナリ、

 

これは宣長が寛永版本の『古事記』に書き込んだものである。書き込みの時期は不明であるが、この箇所についての最も早い時期の見解である事は間違いない。「刀ノ水中ノ砥ニアル象」と、神が「石室ニ坐」し、「水ヲ塞上テ」ているのと、いずれを根源と考えるか、この部分の解釈に関するかぎり、宣長は我々(少なくとも筆者自身)にとって分り易い地点から出発し、その正反対の地点に踏み込んで行ったと言える。『古事記伝』には刊行された版本以外に初稿本(草稿本)、再稿本などの稿本があり、さらにここに引いたように宣長が普段使用した寛永版本の『古事記』も残っていて、そこには宣長自身の膨大な書き込みがある。『古事記』上巻の部分に該当する『古事記伝』の初稿本は現存しない。再稿本の記述は、先に示した版本と同じ内容である。再稿本のこの巻の奥書は安永6年(1777)、宣長は48歳である。宣長が『古事記』の校合などを始めたのは35歳の明和元年(1764)正月である。「石室ニ坐ト云ヒ、水ヲ塞上テト云ルハ、刀ノ水中ノ砥ニアル象ナリ」という書き込みの時期はもちろん不明であるが、明和元年よりも前ではあるまい。そして、明和元年から安永6年までの間に、『古事記』に対する認識の仕形、あるいは『古事記』を「神典」とする根拠付けの変化が有ったのではないかと私は想像している。宣長における変化について、次節でもう少し述べよう。

                                               

 

 『古事記伝』の再稿本と版本を比べてゆくと、当然のことながら、両者には大小さまざまの違いがあることが知られる。一般には早い時期に書かれたものほど版本との違いが大きく、後のものほど違いは少ない。再稿本には用例の補充、論理の整頓、様式の統一などを図るため多くの書き込みが行われ、余白が足りなくなれば付紙を加えた。大雑把な印象としては、10之巻(奥書は安永3年7月)あたりまで、訂正・加筆・抹消などが非常に多いようである。ただし『古事記』の最初の部分の注釈である『古事記伝』3之巻などは訂正や加筆によっても最終的な形に結びつきそうもないほど大幅に変更されているが、それ以外の巻は、初めに書かれた原形に宣長の施した訂正・加筆・抹消を加えてゆくと、最終的な形が大体は得られるようになっている。天理図書館所蔵の3之巻の再稿本だけは、付紙(附箋)を欠いており、鈴屋を離れて天理に落ち着くまでの間に失われたものもあったと想像される。

 再稿本の比較的初期のもの、すなわち10之巻あたりまでで2箇所しか今は気づいていないが、似たような傾向の記述が最終的に付け加えられている。次のようなものである。

 

凡て世間(ヨノナカ)にある事の趣は、神代にありし跡を以て考へ知べきなり。( ヘ)より今に至るまで、( ノ)中の善悪(ヨキアシ)き、(ウツ)りもて()しさまなどを(ココロ)むるに、みな神代の趣に(タガ)へることなし。今ゆくさき万代までも、思ひはかりつべし、(3之巻14丁 全集第9巻130頁)

また

何事も神代の跡を以て、物は定むることなれば、(シカ)心得てあるべきものぞ。(6之巻4丁 全集第9巻238頁)

 

どちらも、『古事記』に記された神代の記事が現世の人間の営みの原型となっている、神代の事跡によって人間の世の諸事物が定めうるという趣旨である。ここの2箇所は宣長の態度を概念的に表現したものであり、具体的に個々の記述を解釈する場合には、先に見た伊都之尾羽張(天尾羽張)の例のようになるのであろう。6之巻の成立は明和8年12月であると推測されているから、宣長は明和8年(1771)の時点では、『古事記』の、とくに神代の記述を、後世の人間にとっての原型であるとは認識していない、少なくともそのようなものとして自分の立場を明確には自覚していないと言えるだろう。

 人間界から神代を見ていた宣長が、神の側から人間界を見るようになった時期をもう少し限定したいのだが、今のところ漠然としか言えないことを遺憾とする。『古事記伝』の精査その他が私自身の宿題である。

 

〈付記〉子安宣邦の宣長理解について

子安宣邦は、とくに1992年の『本居宣長』(岩波新書。後に岩波現代文庫として再刊)以後、宣長について精力的に論じている。『思想』2001年12月号は、たとえば「この分野の専門家ではまったくない」と自認する高橋哲哉他が

 

子安さんの宣長の読みはとてもスリリングですね。『古事記』の冒頭、「天地初発之時」の読み、漢字の「天地」を「あめつち」と読むこと自体の中に「日本的なもの」の立ち上げの構造が始まっているというのは、テキストに即した、説得力のある議論になっていると思います。(座談会「近代日本の自己と他者」 『思想』80頁)

 

などという仲間ボメを繰り返すが、この珍品と称すべき雑誌の悪口を連ねてもきりがないので子安の「とてもスリリング」な読みを点検する。引用が長くなるが御寛恕願いたい。なお段落ごとに番号を付けたのは言うまでもなく千葉である。

 

1 この「あめという名義は、まだ私には思いつかない」という宣長のことばは恣意的な名義の追求をみずから抑制する学問的な禁欲的態度を示すものとみなされてきた。たしかに宣長はそのことばに続けて、「そもそももろもろの言の、しか云ふ本の意を釈くは、甚だ難きわざなる、強ひて解むとすれば、必ず(ひが)める説の出で来るものなり」と、語義的な追求の困難と、恣意的な語義解釈の可能性を警告しているのである。だが宣長が恣意的な解釈として何を避け、何を排そうとしているか、彼が上のことばにみずから付している注によって見てみよう。

2 古へも今も、世の人の()ける説ども、十に八九は当らぬことのみなり。すべて皇国の古言は、ただに其の物其の事のあるかたちのまゝに、やすく云ひ()め名づけ初めたることにして、さらに深き(ことわり)などを思ひて言へる物には非れば、そのこゝろばへをもて釈くべきわざなるに、世々の識者、其の上つ代の言語の本づけるこゝろばへをば、よく考へずて、ひたぶるに漢意にならひて釈くゆゑに、すべて当りがたし。彼の漢国(からくに)も上つ代の言の本は、さしもこちたくはあらざりけむを、彼の国俗(くにわざ)として、何事にもただ理と云ふ物を先にたてて、言の意を釈くにも、ただその理を(むね)とせる故に、皆()(ごと)なるをや。

3 あることばの名義として説かれていることのうち、十に八九は当っていないという。つまりほとんど恣意的な語義の解釈がなされてきたというのである。そして恣意的な解釈の生ずる理由は、漢意にあると宣長はいう。漢意にもとづく解釈とは「そう考えるのが道理だ」というように、「何事にもただ理と云ふ物を先にたてて、言の意を」釈こうとすることである。古えから今にいたるまで「世々の識者」は、この漢意にもとづいて解釈してきたゆえ、その名義のとらえ方はほとんど誤ってきたのだと宣長はいうのである。

4 とすれば、恣意的になりやすい語義解釈への学問的な禁欲とみられたあの宣長のことば、すなわち「阿米てふ名の義は、いまだ思ひ得ず」ということばは、むしろ宣長の「天」という漢字の含意にまどう漢意の断固たる排除の意志を示すものと見たほうがよいだろう。こう見てくると、「天は阿米なり」ということばは、単に「天」の訓みは「アメ」だという訓みを」伝えるだけではなく、「天」とは「あめ」以外のものではないという排除をも示すと考えられるだろう。「天」とは儒教における至上の概念であり、それゆえその漢字にともなわれる儒教的含意は、「天」の読みにあたって一切排除されねばならないのである。(岩波新書『本居宣長』92頁から94頁)

 

まず1は、宣長において禁欲的な学問的態度と見えるものが漢意の「断固たる排除の意志」を示すものであるという子安の主張であって、その正否は別として論理そのものに変な所はない。ただ「語義解釈」というのは、何のことか不明である。「しか云ふ本の意」というのは、現代語では語源と言うほうが普通であろう。

2は、一応『古事記伝』から引用したもの。本居宣長全集では9巻の121頁。「一応」と言っておかねばならない理由は後に述べることにしよう。

3は、その前の段落の要旨をまとめたもので、ここも問題はない。「漢意」とは基本的には「そう考えるのが道理だ」というように、「何事にもただ理と云ふ物を先にたてて、言の意を」釈こうとすることである」というのにも異論はない。

 ところが4で、子安は「とすれば、…「阿米てふ名の義は、いまだ思ひ得ず」ということばは、むしろ宣長の「天」という漢字の含意にまどう漢意の断固たる排除の意志を示すものと見たほうがよいだろう」と、唐突に述べることになる。何が「とすれば」なのか千葉には分らない。もともと宣長における漢意は儒教的な、また中国的な思考を指す場合もあれば、「何事にもただ理と云ふ物を先にたてて」考える思考を指す場合もある。「漢字の含意にまどう漢意」というのが何のことであるのか、千葉にはつかみがたいが、ここで子安のいう漢意は「まどう」などという表現から察すると「何事にもただ理と云ふ物を先にたて」る思考を言うのであろう。そのような意味での漢意の排除は子安の表現では「恣意的になりやすい語義解釈への学問的な禁欲」と同じような意味になるはずである。しかし、それが直ちに儒教的含意のみに結び付けられるのは理解しがたい。老荘であれ、仏教であれ、あるいは儒仏道を都合にあわせて摂取したような中世風の神道論であれ、宣長によって恣意的な解釈として排除されるだろうと私は思う。

 さらに付け加える。子安の引用した宣長の言葉は『古事記伝』3之巻の初め、「天地」の訓を述べたところである。子安の引用の直後に

 

かくて近きころ古学(イニシヘマナビ)始まりては、漢意(カラゴコロ)( テ)(トク)ことの(ワロ)きをば、(サト)れる人も有て、古意(イニシヘゴコロ)もて(トク)とはすめれど、其将説(ソレハタトキ)()ることは、猶(マレ)になむありける、

 

と続くのである。「古意」によって解釈しようとするものが無条件で肯定されるわけではない。宣長の言葉は、すなおに「学問的な禁欲」と受け取ればよいのではないか。子安の強引さは「神」についての説明を問題にした場合も同様である。

 

宣長は「(あめ)」の場合と同様に「(かみ)」についても、「迦微(カミ)と申す名の義はいまだ思ひ得ず」という。このことばは、前節にのべたように、恣意的な語意解釈の抑制とともに、「神」の漢字の含意を一切排除する意志をも示している。(同書97頁)

 

などと子安は言うが、宣長が次のようにも記しているのは、どう解釈するのだろうか。

 

迦微(カミ)( ノ)字をあてたる、よくあたれり、(3之巻8丁 全集第9巻126頁)

 

( ノ)字」が、カミという日本語に「よくあたれり」と宣長は書いているので、「漢字の含意」を排除などはしていないのである。たぶん子安は見なかったことにしているのだろう。詐術と称する所以である。           (2002年10月15日稿)

 

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