新渡戸稲造と我が恩師小倉恒夫

和田 孫博

 

夏休みに北海道の札幌郊外にある立命館慶祥高校へ教員研修会の講師に招かれて赴いた。八月二十日午前中の約束だったので前日の七月十九日は札幌市内でゆっくりしようと午前中の便で千歳に向かうことにした。久しぶりの飛行機旅行にやや勇み立ったのか、いささか早く伊丹空港に着いたので、時間潰しの常套手段としてブックストアに入った。新書のコーナーを歩いていたとき、『英語達人列伝』(斎藤兆史 中公新書)なる書名が目に入った。手に取って目を通してみると、明治から昭和初期にかけて世界を股にかけて活躍した日本人たちがどうやって英語を身につけたかをミニ伝記風に語っていて面白そうなので、二時間の飛行の友にと購入した。

キャビンに入ってシートベルトを締めるとさっそく表紙をめくった。第一章は「新渡戸稲造」。一九八四年に五千円札の顔として初めて名前を覚えてから一七年が経つが、東大で教鞭を取ったことや国際連盟で事務局次長を務めたことぐらいしか彼については知識が無かった。いきなり美文調の英語のパッセージが二つ並んでいる。一つはカーライルの『衣服哲学』の冒頭で、新渡戸が留学経験も無い十八歳の頃に苦も無く読みこなしていたレベルの英文例として挙げられている。相当格調の高い英文である。もう一つは新渡戸の三十七歳の著作である『武士道』(Bushidothe Soul of Japan)の一節である。英文がオリジナルで翻訳が後で出たのだそうで、彼の英語力の高さを示す一例として挙げられているのだ。

  この本によると、新渡戸と英語との出会いは叔父の太田時敏の養子迎えられて上京し、私立の英学校に入学した時であるらしいが、その後発足したばかりの東京外国語学校に十一歳で進んでから本格的な勉強が始まる。ここでの四年間で身につけたものは多読の習慣だったようだ。英書を一頁二分程度で読める程になったそうだ。この能力が認められて十五歳で札幌農学校に進むことになり、そこでクラークをはじめとする所謂「お雇い外人教師」の教えを受ける。彼は内村鑑三や宮部金吾らと同じ二期生でクラークのキリスト教精神を最も忠実に受け継いだ一人で、付録の略年譜によると十六歳で洗礼を受けている。農学校卒業後、北海道開拓使御用掛となるが更に学業をつむため東京大学に入学。そしてついに明治十七年、二十二歳で渡米し、ジョンズ・ホプキンズ大学に入学、ついでボン大学で研鑽を積んでいる。七年に亘るアメリカ生活の最後にアメリカ人女性と結婚し明治二十二年に帰国している。この経歴が、その後京都・東京両帝大の教授を歴任し、国際連盟事務局次長を六年に亘って務めるに耐えうる英語力を保証することになったと考えられる。そのきっかけはクラークとの出会いにあったと言ってもいいのではなかろうか。

  正午頃札幌に着いたが、午後は特に予定もなかったので、北海道大学を見学しようと思い立った。駅前のホテルに荷物を預けて大学への道を問うと「北大キャンパスガイドMAP」というイラストマップをもらった。裏面に書かれた見所に目を通すと、二十番目に「新渡戸稲造博士顕彰碑(胸像)」が挙げられている。説明によると平成八年に北大創基百二十年記念に際して建てられたということだ。この本に出会った何かの縁かと、ここをメインの目標にして敷地の南東角にある正門から構内に入った。夏休みの日曜日ということもあって学生の姿はまばらで、観光客も団体は皆無。二、三人連れのグループがカメラを手にあちこち漫ろ歩いている程度で、極めて清閑としている。入ってしばらく行くと右手に胸像が目に入る。農学校一期生で後に農学校校長、北海道帝国大学総長を歴任した佐藤昌介の像である。次の角を右に曲がって左手に伸びる小径を少し行けば百年記念会館に出る。ガイドマップの説明では百年史を解説する写真や資料が展示されているらしいので楽しみにしていたが、あいにく日曜日は休館だった。建物をぐるっと一周して南に下りる小径を進むと正門からの広い道に戻り、付属図書館の西隣りが明治四十二年に農学部林学講堂として建設された古河記念講堂。木造ながら威風を漂わせている。その西角の道を挟んで南側の中央ローンと呼ばれている憩いの広場の端にクラーク博士の像がある。大正十五年の初代のものは太平洋戦争中に供出され、昭和二十三年に再建されたらしい。その前の広い通りを渡れば農学部の敷地に入る。ともに明治三十年代築造の旧昆虫学教室と旧図書館との間の小径を北に入ればエルムの森と呼ばれる林間道である。巨大な楡の木が天を隠し、雲一つないはずの青空からもわずかな木漏れ日しか漏れてこない。束の間の森林浴を満喫して歩を進めると農場の一角に出て、北を向けばひたすら天を目指して枝を伸ばす木々の縦列が目に飛び込んでくる。かの有名なポプラ並木である。幅一メートル程の直線の小径の両側に整然と並ぶポプラは、青い天を背景に壮観である。ただし、いずれも老木でいつ倒れてくるかわからない状態であるらしく、残念ながら通り抜け禁止になっている。その代り、すぐ東側に北海道の植物を集めて植えている花木園が設けられ、そこからポプラ並木の側面を見ることができるようになっている。その花木園の入り口に新渡戸博士の顕彰碑が建っていた。表情は五千円札の肖像よりもにこやかで、何かを語り掛けてくるようであった。この人が今から八十年ほど前に国際会議の場でどんな英語を使ったのか、さらには百二十年以上も前に鬱蒼とした森に囲まれた物寂しいこの地で英語による授業打ち込んでいた若者の姿を俄には想像し難かった。

新渡戸にとってのクラークのように、人にはそれぞれ師と仰ぐ人がいるものである。僕にとっては中学・高校時代六年間英語を教わった小倉恒夫先生である。中学の頃単語を覚えるのが億劫で英語の劣等生であり、理科系向きだと身勝手に決めつけていた僕を見放さず、英語を読むことの面白さを切々と教えてくださった。就職にあたっても母校に職を求めた僕を当時の校長にとりなしてくださったのも先生である。本当に感謝に堪えない。七十手前で勇退されるまで七年に渡って職場を共にしている間にも気にかけて頂いた。御恩は数えきれないのに、先生が退官後『道』という自分史を自費出版されたとき印刷所の紹介と校正のお手伝いをした以外まだ何の恩返しもできていない。先日、数人の友人と共にお宅に押しかけたとき、九十歳を超え、脚が弱って歩けないとこぼされつつもますますお元気だったが、恩返しの意味を込めて『道』を材料に先生の英語と人生について少し書いてみたい。この本を読むと相当山あり谷ありの人生だったこと、先生にもまた命の恩人がおられたことがわかる。

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小倉恒夫は明治の終わりの横浜生まれで、両親はオリエンタルホテルに店を出す小資産家だったようで、幼少期はあまり不自由することなく育った。商売で忙しい父母は店の近くの別宅に住み、恒夫は本宅に残りそこを借りていた雲州流茶・華道の家元夫婦の世話を受けて暮らしていた。子供の無かった家元は跡目を継がそうと小学生の恒夫に茶道・華道を教えていたらしい。山手公園(横浜市中区)近くに大丸谷というの丘陵の斜面があって、谷の東側には日本人の民家が密集し西側には大きな外国人住宅が並んでいたが、その境の辺りに家があったので、日本人だけでなく外国人の子供とも遊んでいた。片言の英語でアメリカ人の餓鬼大将と喧嘩をしたエピソードが『道』に載っている。恐らくこれが彼の英語世界の原風景であったのだろう。

 比較的恵まれていた恒夫の子供時代は、大正十一年九月一日の関東大震災で一変する。両親も家も財産もすべて一度に失った彼は、茫然自失状態であっただろう。戸籍を確認する役所も壊滅したため原本は無くなった。教壇で「俺には定年は無いんだ。大震災で戸籍がなくなったんで年齢不詳だからね」とよく冗談を言っていたが、あながち嘘ではないのかもしれない。牛込の叔母夫婦に引き取られるが、横浜第一中学の合格通知を手にしながら叔父に入学を認められず、「よろずや」に徒弟奉公に出される。「よろずや」とは大工、左官、植木屋、屋根葺きなど建設・修理に関することなら何でも引き受ける便利屋で、そこで材料を大八車で運ぶ仕事をさせられた。友人も無く、話し相手と言えばフェリス女学院の寮のそばに立つ大きな椨(タブ)の木だけだった。仕事にあぶれた日にはこの木の下で何時間も過ごした。そんなある日、一人の外国人女性が、綺麗な黒い箱を手にしてその木の前を通りすぎた時、ふとした出来心からその箱がどうしても欲しくなった。そして盗みに入ったところをつかまって、あわや警察に突き出されるところだった。ところが当の外国人女性が皆を制して、「この子が盗もうとしていたのは聖書です。盗んでまで聖書を読みたい人はいないでしょう。神様が私たちを試みようとして、この少年をここにお寄越しになったのです」ととりなしてくれて許されたのである。この女性は当時のフェリス女学院のウルフ校長だった。ウルフ先生は毎週土曜の夕方に自宅で開いているバイブル・クラスへの出席を約束することを条件に恒夫を放免したのである。それから毎週休まず英語で行なわれる聖書研究会に出席し、一時間余りの苦行を終えた後は食事やお菓子のご馳走に与ったのだ。そして、英語を本格的に勉強して身を立てようと思い立ったのもこのことがきっかけであった。聖書研究会には二年間皆勤し、その後は月一回のティー・パーティーの司会を引き受け、太平洋戦争勃発前夜にウルフ先生が帰米するまでずっと欠かさず参加した。

 勉強の道をめざし「よろずや」を飛び出した後、横浜貿易新聞社で夜の活字組のアルバイトにつき、三年前の合格資格で横浜第一中学校一年に編入されたが、校長の勧めで「専検」(専門学校入学者資格検定試験:合格すれば中学五年終了の資格が与えられる。現在の「大検」に似ている)を目指して二年で合格、三年間の「よろずや」時代の遅れを取り戻した。専検に合格した後、ウルフ先生の紹介で横浜のメープル・カレッジに入学し、二年間英語を本格的に勉強した。英作文の力を磨いたのもこの時代であった。そして大蔵省の関税課の官吏登用試験に合格し、通訳、翻訳官の補に任ぜられ、主に洋画や洋書の輸入検閲に当った。僕が大学時代学校にお邪魔してEMForsterを卒論のテーマにすると言った時、彼は「和田君はそのForsterの作品を全部呼んだのか」と問い質した。口篭もっていると「そんなのではだめだ。私はDHLawrenceは全部読んだぞ」と叱られたが、ロレンスの全集を検閲したのが彼だったらしい。官吏の仕事は楽であったのだが麻雀や撞球で身を持ち崩しかけたためにいやになり、教員を目指して「文検」(師範学校、中学校、高等女学校教員資格検定試験)にトライすることにした。そして昭和十四年に合格し、十五年から横浜市立専修商業学校にて初めての教員生活が始まる。三十歳のわずか手前のことであった。

 ところが太平洋戦争が勃発すると英語科は廃止。戦時中でも英語の授業をやっている学校を神戸に探して転勤することにした。これが神戸との出会いである。そこで英語を教えながら、恒夫は高校の教員を目指して「高検」(高等学校高等科教員検定試験)の受験準備にとりかかる。これは戦前、三年に一度高等学校の教員を民間から登用する検定試験で、毎回二百人程度が受験するが合格者は数名程度という超難関であった。官報で日程と各科目の参考書が発表されたようで、英語では七十冊程度、その大半が洋書であったらしい。戦争中は中止されていたのだが、昭和二十二年に施行された。受験生は約二百人(英語だけでそうなのか他の教科も合わせてなのかは不明)であった。英文学・英語学・発音学・英文法・聴き取りについて一日一項目ずつ試験があり、毎朝前日の項目の合否発表が文部省の玄関に貼り出された。全科目無事パスをして五日ほど休みがあり、後半は口頭試問となった。このときの試験官は市河三喜、齊藤勇、土居光知、そしてHornbyなどいずれも錚々たるメンバーである。土居の口頭試問は有名な詩人の名前を書いた札を十枚机に並べ、どの順にでもいいからそれぞれの自然観を述べよというものだった。二時間ぐらいかけて全く自信無げに答えていったのだが、どういうわけか合格だった。Hornbyとの面接では、入室して英語で挨拶をし、出身地と家族構成を尋ねられてそつ無く答えたつもりなのに、すぐに“Nowyou may go out.”と言われた。仕方なくすごすごと退出したが、それで合格だった。最終合格者はわずか七人。狐につままれたようだったと『道』の中で述懐している。晴れて高等学校の先生かと思っていた矢先の学制改革。新制の高等学校の先生に就くことになってしまった。それからは兵庫県立神戸高校で六年過ごした後、灘中学校・高等学校で三十年教育一筋の道を歩んだ。

 以上が彼の人生の概略である。命の恩人のウルフ先生には、いずれアメリカに出かけて行ってお目にかかろうと思っていたが、その前に訃報を聞くことになり幾日も慟哭の日を過ごしたそうだ。

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 小倉先生の英語は書いた文も発音も、僕など足元にも及ばないほど綺麗である。ただし、少しsやshの子音の音が強く響くという印象がある。これは俗に「シッシ・イングリッシュ」と言って、どちらかと言えば女性の発音に多い。このあたりにウルフ先生の英語の特徴が受け継がれているのかなあと邪推するのである。前にも述べたように、先生は九十を過ぎた今も極めてご健在だが、ご本人は「すっかりボケてしまったよ。それと不思議なことに日本語が出てこなくても英単語が出てくる場合がある。それほど英語が染みついちゃってるのかなあ」なんておっしゃっている。

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