進学校野球部奮戦記

和田 孫博

 

 灘中学校・高等学校に奉職以来、時には監督として時には部長として野球部にずっと関わってきた。今年で二十七年目になる。本校は進学を売り物にしている学校の割にはクラブ活動を積極的に奨励しており、体育系クラブも十五ある。運営は生徒の自主性を重んじ、教員は安全面に注意を払うことが主な仕事であるが、練習試合等の対外活動になると当然引率が必要となる。特に野球は、サインを出すという重要な役目を監督が負わなければならないから、自校の選手の特徴や調子の良し悪しを把握していなければならないのは当然であり、相手校のバッテリーの特徴や守備の力などを臨機応変に判断することを迫られる。自校の攻撃の時、打者や走者がじっとこちらを睨むと何かサインを出さねばならないという衝動に襲われる。慌ててヒットエンドランなどのサインを出す時に限ってボール球が来て、打者は空振り、走者は2塁でアウトになったりする。といって何のサインも出さずにいると、凡ゴロでダブルプレーに取られることもある。その度に、監督は自責の念に捕らわれる。いっそそういう責任をプレーヤー達に任せてはどうかと思ってキャプテンに采配を委譲したりもするが、各プレーヤーは各自の持ち場に一生懸命で試合全体の流れを冷静に見渡すことができないから、却ってうまくいかない。そこで、自責の念を払うために、いわゆる野球の機微を学ぶ努力を始める。ルールブックや解説書を読んだり、高校野球やプロ野球を作戦面に注目して見るようになる。そして野球の奥の深さに感嘆する。野球では確率を重視すべきだということを学ぶのだが、打者が誰で走者が誰の時のどういうカウントでどういう作戦を立てれば確率が高いか、どの代打はどういう投手のどういうシチュエイションで打つ確率が高いか、どの投手をどういうタイミングでリリーフに出すべきか、あるいはどういうタイミングでタイムを取るか、いくらでも学ぶべきことが出てくる。自チームの選手の特徴や調子をつかむには、試合だけでなく普段の練習もある程度見ておかねばならない。そうこうしているうちに野球というスポーツに填って抜けられなくなる。五十という年令に達した現在では監督は若い先生にお願いしているが、部長として関わり続けている。

 この二十七年の間に、本校野球部が夏の兵庫県予選で一勝したのは四回。監督で二勝、部長で二勝である。一夏に二回勝ったことはない。決して弱い年ばかりではないのだが、今年はそこそこのチームだと密かに期待している年に限って、抽選で強豪と当たる。そういう不運も重なって最近は十年連続初戦敗退である。春の選抜大会に繋がる秋季大会は東神戸地区予選を勝ち上がって県大会に出場するのだが、そのためには地区で最低三勝しなければならない。こちらはこれまで僕が監督をしていた一九八二年に一度県大会に勝ち上がったことがあるだけだった。それが今年は地区予選で三連勝して二位となり、二十年ぶりに県大会に駒を進めたのである。心に残る灼熱の夏休みの出来事であった。

 

 その芽は前チームにあった。一昨年度までは事実上夏の県予選で敗退した日に高校二年生がほとんど引退した。我々としては高三まで続けて欲しいのだが、いつ頃からか進学への影響を気にしだして、そういうのが伝統になってしまった。夏休み中にある秋季大会の予選までは残る者もいたが、彼等も下の学年の助っ人という感覚で野球をしていた。それが終わると、どうしても三年まで完全燃焼したいという一、二人の「変わり者」を残して皆グラウンドを去って行った。その段階でチームは事実上高一だけになり、一からチームを作り上げていくことになる。

ところが昨年のチームはちょっと違っていた。信頼できるエースがいた。彼は高一の時からエース番号を背負い、高二の夏にはみんなの信頼を集めていた。今年こそは久しぶりに夏一勝、それがみんなの合い言葉だった。ところが抽選で一回戦シード校を引き当ててしまい、善戦ではあったが一勝もできずに終わった。このエースが仲間にもう一年一緒にやってくれと頼んだ。この誘いに主力の高二生六人が応えたのである。それから一年、エース自身は肩に故障を抱え苦労の連続であったが、一緒に残った仲間は一回りも二回りも成長した。監督も彼らの気概に押され、「野球のセンスは小学校や中学校時代に身につけてしまっているから急には伸ばせないが、筋力は冬のトレーニングでいくらでも強くできる」という方針で熱心に指導、エースの復活を待ちながらバッティング力の飛躍的向上を図った。その結果、打力ではそこそこのチームとなら引けを取らない自信ができてきた。考えてみれば、今まではほとんど高二の選手のみで高三が主力のチームと戦ってきたのである。一番伸び盛りの時期での一年の差は、大人と子供の戦いと言ってもよいくらいである。

 そのチームが、今年の夏の大会目前にして漸くエースも七十パーセント程度回復し、今年こそはと意気込んでいたのだが、またしても抽選で強豪校を引き当てた。試合は期末考査終了の翌日、場所は学校からバスで三時間かかる豊岡球場、悪条件がそろってしまった。おまけに試験期間中の練習で、セカンドで高三一番の元気者がバントのファールチップを右目に当て入院。当日は医師の許可を得てベンチには入ったものの、出場はかなわない状態だった。急遽ショートをセカンド、サードをショート、ライトをサードにコンバートして練習できたのはわずか三日だった。僕自身は試合開始前にはコールドゲームを覚悟していたというのが本音である。しかし始まってみると結構戦える。初回からの再三のピンチも、エースが踏ん張り急造の内野がそれに応えて何とか守りきる。一点、二点と徐々に加点されてはいくが、大量得点を許して試合が決まってしまうということは一度もなかった。ただし、相手校も評判の投手を擁し、要所を押さえてなかなか追撃を許さない。八回に漸く一点を返したが、善戦むなしく五対一で敗退した。

 一勝を夢見て一年頑張ってきた七人の三年生達は何と言うだろうか。試合後のこのチーム最後のミーティングが気になった。エースが涙声で口火を切った。

「今日のピッチングには悔いがない。燃え尽きることができた。」

目に怪我をしてベンチで懸命に声を出していた選手は、

 「迷惑をかけた。でも僕自身は一年余計に野球ができて幸せだった。」

最後にキャプテンが締め括った。

 「二年生も来年までやって、僕らのように燃え尽きてくれ。」

 

 その翌日から新チームの練習が始まった。十八名いる二年生は、とりあえず夏休み後半にある秋季大会の東神戸地区予選までは全員残ることになり、十三名の高一生とで三十名を越えるチームである。一度一段上のレベルの野球を見せてやりたいという監督の希望もあって、前チームのキャプテンの叔父さんが近畿大学附属福山高校の監督をなさっているという縁で、七月末に二泊三日で福山に遠征に出かけた。高校野球では県外のチームと練習試合をする時には前もって県の高校野球連盟に挙行届けを出さねばならない。そして終了後はその結果を高野連に報告しなければならない。強豪チームならまだしも我が校のように弱小チームには気恥ずかしいが、手続きを怠っては試合が差し止めになるケースもある。遠征先でお相手願うチームも近大福山の監督さんに手配いただき、届けを出して出発した。近大福山高には、宿舎の斡旋や合宿所での朝夕の食事まで便宜を図っていただいて感謝あるのみである。試合は近大福山と一試合、福山誠之館と二試合、福山商業と二試合という強行日程の上、猛暑無風の中大変であった。広島県には広島商業、広陵高校を頂点にした「広島野球」という球風が昔からある。バントと抜け目ない走塁で相手の守備をかき回すという高校野球の原点とも言える作戦であるが、PLや池田旋風以来、筋力アップによる破壊力の向上が主流になり、多少影が薄くなってはいる。しかし、内野守備や捕手の送球に多少でも不安のあるチームに「広島野球」を使えばガタガタになってしまうことは間違いない。ただしそれには、バントの精度を高め、走塁の練習を重ねるという地道な練習が必要である。この三日間、いやと言うほど「広島野球」の洗礼を受け、選手たちは自分たちが思い描いていた野球を少しもさせてもらえずショックを受けた。それでも三日目の福山商業との一試合目は四対四の引き分けに持ち込むという精一杯の意地を見せ、これからの課題を見つけて神戸に帰ってきた。僕の目では予想以上の収穫を得た遠征であったと思う。ただし、引率した監督は帰着後暑気中たりで倒れた。僕もボーッとした気分が二、三日続いた。

 秋季大会は遠くは春の選抜大会に繋がる。地区予選を勝ち上がり、県大会で三位までに入り、近畿大会で一、二勝すれば選抜の切符に手が届くのである。さらに二年ほど前から二十一世紀枠というのが創設され、従来の基準では選抜されなかった学校からも「困難な環境や条件の克服、模範活動を行うなど」の成果が認められた二校が特別枠で出場することになった。ただし、秋季県大会でベスト八以上という条件がついている。全部で百六十数校が参加し強豪校が犇めく兵庫県では、この条件すらクリアするのは難しいことなのだが、どこの高校にも淡い夢を抱かせてくれる制度である。

 東神戸地区は十校で構成されていて、地区予選の上位三校が九月の県大会に出場できる。ただし、この地区には甲子園にも時々駒を進める強豪神港学園がいるので、事実上残りの二枚の切符を九校で争うことになる。今年は結果的に抽選に恵まれた面もあった。神港学園とは別のブロックに入り決勝戦まで当たらない組み合わせだったのに加えて、一回戦の東灘高校は最近の少子化が影響して野球部員が八名、サッカー部やラグビー部の控え選手を借り出しての参加だった。それでも前半は互角の勝負になったが、後半本校の打線が爆発して最後はコールド勝ちであった。二回戦の神戸第一高校は三年前に女子校が共学化した学校なので野球部の歴史が浅い。この試合も後半に打線で圧倒し、二試合連続コールド勝ちとなった。これでベスト四、次の試合で勝てば二十年ぶりの県大会である。しかし対戦相手の御影工業はこの地区では神港学園に次ぐチーム、県大会へはほとんど毎年出場している。同地区なので過去にもよく対戦しているが、善戦まではいっても勝った覚えはほとんどない。

 この大決戦の日、新チームのエースは前チームのエースの魂が乗り移ったかのような快投を演じた。これまでの二試合、打線に助けられて勝ったものの、彼は四死球を多く出し、走者を背負ってストライクを取りに行ったところを痛打されるという彼の悪い面が見え隠れしていた。ところがこの日は速球が低めに集まった上に、決め球のスライダーが面白いように決まり、九回投げ切って無四球という信じられないような投球だった。守備もエラーで失点をする場面もあったが、その後連鎖反応的に崩れていくということがなく、数回のピンチも何とか凌いだ。打線はさすがにそれまでの二試合ほど気持ちよく打てたわけではないが、福山遠征で教えられた「広島野球」で走者が出るとバントと走塁でかき回し、相手を慌てさせた。先制し、逆転され、追いついて、六回を終わって同点。こちらに「ひょっとしたら勝てるかも」と元気が出て、向こうには「こんなはずでは」という焦りが出たのかもしれないが、七回表二死からエース自らがタイムリーを放って勝ち越すと、七回裏から三イニングを三人ずつに切って取り、こちらは九回に相手チームの守備の乱れから追加点をもらって勝ってしまった。記念すべき勝利は一生記憶に残る熱戦を制してのものだった。センターがウィニングボールを捕球した瞬間、チーム全員が跳ね上がり、横にいる監督も跳び上がった。僕自身のことはよく分からないが、きっとクシャクシャの顔をしていたに違いない。ちょうど二十年前、僕が監督の時、延長十三回の死闘を制して県大会の切符を手にした時の方がもっと冷静だったような記憶が蘇る。あの時は本当に強いチームで守備がよかったので勝つ予感があったからかもしれない。一息ついたとき、この後神港学園との決勝戦があり、いずれにせよ九月中旬からの県大会まで、ついに今年の夏は野球漬けだったなとふと思った。決勝戦は雨で水入りの後、八月の最後の日に行われ、満塁本塁打を打たれたりして八対二で負けたが、初回に二点を先制し九回まで戦い抜いた(七回で七点差がつくとコールド負け)ことに満足している。

県大会に出場が決まると、どこから聞きつけたのか、『週刊現代』の記者をしているOBから取材があった。県の高校野球連盟の許可を取ることを条件に取材に応じた。翌週号に「灘高校の野望」というタイトルで、県大会でベスト八に入って二十一世紀枠の獲得を狙っているという記事が載っているのを見た時には苦笑を禁じ得なかった。その記事を目にしたのであろうか、今度はサンケイスポーツの記者がやって来て、ほぼ半日かけて練習を取材していった。数日後、今度は「灘高、甲子園まであと二勝」というタイトルでかなり大きな記事が載った。その後OBから激励の電話が入ったり、近所の人にも「今年は強いんですね」と声をかけられたりで、マスコミの宣伝効果のすごさと世の中の高校野球への関心の高さにはあらためて驚いた次第である。しかしその取材の翌日、エースが打撃練習中に左肩に死球を受け、全治二週間の診断を受けたのは予定外であった。

学校の校庭で行われる地区予選とは違って、県大会は正式球場で行われる。一回戦は、県営明石球場。両翼百メートルで、フェアグラウンドは甲子園よりも広い。両翼が七十メートルという本校のグラウンドの約2倍の面積がある。その一塁側スタンドには百人を越える応援の人たちが陣取った。夏まで彼らを引っ張ってきた高三の選手達が応援リーダーを買って出てくれた。校長も急遽用意したお揃いの緑のTシャツを着て保護者の一団に混じっていた。相手は赤穂高校、県の西端のチームで対戦データなどは一切ないが、強力打線という評判はあった。エースの代役の二番手投手は高校から野球を始めたばかりであった。子供の頃は身体が弱くて三年ほど入退院を繰り返していたこともあったそうだ。好きだからという理由で入部したが、守備も打撃もものになりそうにない。そこで監督が投手を目指したらと助言をした。それから一年余り、制球力ではチーム一になっていた。「ヒットを打たれるのも四球を出すのも同じこと、どんどんストライクを投げ込め」という監督の言葉を実践しているうちに、スピードもそれなりについてきて二、三回のリリーフには十分使えるようにはなっていた。しかし、さすがに先発の荷は重すぎた。多少緊張気味の右腕から投じられる素直な球を強力打線にミートされると一溜まりもない。一回無死でいきなり先制点を奪われてしまった。彼を少しでも助けようと守備は締まっていた。毎回のように訪れるピンチもたびたびの好プレーで大量点だけは取られずに凌いでいた。それでも五回の表を終わって八対一。このままではコールドゲームかなと諦めかけた。しかしその裏から反撃開始。走者をためて単打をつなぎ、最後は十対八と二点差まで迫った。初戦敗退とは言え、驚異の粘りを見せてくれた。試合後、先発投手は「エースが投げていてくれたら」と自分の非力を嘆き、リリーフした投手は「僕が追加点を許さなければ」と悔やんでいたが、みんなさわやかな気分で球場を後にすることができたと思う。球場の出口で待ち受けていた応援者は口々に「いい思い出を有り難う」と労いの言葉を掛けてくれた。

かくして、例年より半月余り長い秋季大会が終了し、「灘高校の野望」は儚い夢と消えた。とりあえず秋季大会までは全員残った高二の十八名のうち、七名がこの日ユニフォームを脱ぎ、十一名が高三まで続ける決意を固めた。前チームのキャプテンやエースの思いが新チームに繋がったのだ。

 

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